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多くてもひとつで、少なくともひとつ

おはようございmさうs!毎度おはようございますではない言葉から日記を始めようと思うのだが、まずはこう手を動かすのが書きはじめ、流れを生んで、あるいはどこかにある流れを見つけて勢いを借りてこの日記を立ち上げていくにはこうするのが一番だとわかってきたので、今日もそうしている。めちゃくちゃ打ち間違えているが、あれも立派な、いや立派ではないかもしれないがれっきとしたおはようございますである。5:40、少し頭が痛い。昨日は始発の電車に乗っていくようなバイトの時程だったので、夜は当然のようにさっさと眠くなった。こりゃ一度でも横たわったら寝てしまうだろうな、それでも洗濯物干しはやりたいから、勝手に請け負うが体はだるいから、いく当てがないともいえるし全方位に向かっているともいえる怒りが湧いてきて、もちろんそこには僕も含まれるから、勝手にやって勝手に苦しくなる、他人が陥っているのをみてあーあーまたやってるよ、と呆れてしまうようなそのループに僕も陥ってしまうのは嫌なので、どこに腰掛けることもなく風呂から上がった後はひたすらやるべき作業をこなすために足を動かしていた。洗濯物を夜中乾燥機にかけるタオルと、今洗って室内干しするものに分ける。アリエールのジェルボールを一つ入れる。積み重なった衣類の上にポンとおいておくだけではこの後全体に行き渡ってくれるか心配なので、一度ドラム型の洗濯槽を手で回す。一番上にあったものが一番下に行っただけと言う気がしないでもないが、まあ上よりは下だろ。なんとなく。じゃあ最初から入れとけよとなりそうなものだが、汚れ物を直接洗濯機に入れる家族、洗濯籠を経由する家族それぞれいる中で、ジェルボールの所在がことづてなしには不明瞭なものとなるのは明らかであって、僕が毎度その確認をみんなとして洗濯スイッチを押すことができるわけでもないし、だいいちめんどくさい。だからもう最後に入れるで統一しているよ、と言う感じを出しながら毎日の洗濯を行う。ルールをつくったり、こうしてくれという言い方をするのは好きではない。僕が言って人がそうすることになんの喜びも感じない。というと話に少しの飛躍があるかもしれないが、いつものことである。それこそ毎日衣類や食器を洗って、よく乾くように干しておく一連の作業となんら変わらないくらいに。5:59、母が起きてきた。バイトは何時から?と聞かれて僕は今日はバイトないよ、と答えて、母は遊びに行くのね、と言ったから僕はそう、とまた言った。帰りは明日の夜、バイトを終えてからになる。彼女と会う予定をバイトに挟み込むことによって交通費を重複させると言うのは僕が日頃お世話になっている小技だが、今週は彼女が千葉に帰ってきているからその必要はなかったらしい。ただそれはそれで、日曜日の夜は彼女と一緒に埼玉寄りの東京の方まで帰ることができる。そうすると彼女はすごく喜んでくれる。バイトとバイトの間に、いち拠点としてお邪魔するような本来の形式より、よほど血のかよった作戦に思える。5年、いや4年くらい前かな、大学の友人にミネタというコミュニケーション能力の高いおしゃべり、ただし結構ナイーブがいるのだが、彼に大学で初めて彼女ができた。一つ年上で、看護職だったか、なんらかの専門職に就くために学校に通っていた子だったと記憶しているが、彼女がしょっちゅうミネタの家にくる。僕は19歳の童貞なので、どころか交際経験すらなかったので、いいなあ、朝まで女の子が自分の家にいて、彼女を送り出し、または送り出されるのか、彼の家だから送り出されることはないか、しかしそういえばオートロックだからあり得るのか、いずれにせよ大学生っぽくていいなあ、みたいなことを思っていたような気もするし思っていないような気もちょっとするが、ミネタは人の羨む心をよそに、よく小言を口にしていた。僕がなんとなく癪だったので羨ましいことを口に出さなかったから、それを彼に伝えていればもう少し当時の心象が明るい方に流れていた可能性もある。彼は難しい顔をしながら「ただ学校にいくのに都合がいいから俺の家を使われている」と言う。僕は何が何だかなんにもわかっていないので、はあ、そういうこともあるのか、とだけ思って、反論もなかったので同意と捉えられていいような相槌を打ちながら話を聞いていた。当時の僕は、と言わなかったのはたまたまだが、今の僕だってあの子の真意はよくわからないからだ、という意味を付け加えてもいい。未だに僕は同意も拒否もできないが、ふと、そういう切ない気持ちを僕の彼女に、押し広げて、というより並行して、友人や対面する人々に、抱いてほしくはないなと思うことがある。かなり頻繁に、ある。僕が千葉から一緒に彼女の家に帰るのは、彼女の家を拠点として使うような動きをせざるを得ないことに対するカバーリング、埋め合わせのような意味合いもあるのかもしれない。埋め合わせというのは、切実な思いのこもったものでなくてはならない、血のかよった生き物でなくてはならない、僕の手を離れても、どれだけ離れてもなお、僕がそれを届けたい人を温め続けるような。向こうから見てどう思えるかが全て、ということを話の背骨に据えてはいるが、翻って僕がどう思っているかが全て、という側面も見落とさないようにしたい。彼女は千葉からほぼ埼玉まで月に2.3回僕が足を運んでいることを喜んでくれている。僕は交通費の心配が軽減されていることもあって(毎度バイトで挟んでいたら身が持たないときもあるので、ときには効率が悪くても自分の家に帰り、翌朝彼女の家に向かうことも度々ある)、もはやこの1時間だったり2時間だったりの旅路になにも思うところはなくなってきている。というかなにもない、でいいかも。ただ電車に乗っている。文章を書ける猶予ができた、でもかえって貴重な読書の時間ができたありがとう、でも大学生の時はわざわざ仙台まで来てもらっていたから、往復25000円×なんぼだ?まだあまりあるくらいでしょ、は冗談でいうこともある。なかでも重要なのは、行ってやっている、という感触が僕の中に微塵もないことだ。全体の風景としてここには結果何もないので、重要もクソも元からないように見えるから注意が必要だが。行ってやっているがなければ、何か彼女の姿勢に引っ掛かるところがあったとして、まあ僕がそれを直接言葉にすることはほぼない(態度に表すとすればそれは沈黙に近づいていく)が、生じてくる心の中にさえ、いやそもそも普段からこんなに行ってやってんのにさ、が顔を出すことはない。想像することはできる。想像ができることは全て起こりうるわけだが、これに関しては他人事としてなんの感慨もなく見ることができていると思う。おもうところなんて別にないが、コメントは捻り出せる。ワイドショーで見かけるコメンテーターの3割くらいはこの認知のずれのようなところに仕事を見出しているのかもしれない。思うことなんて何もない、わけではないのだろう。では目の前の言葉、唇の先の音にならずにいる彼らの「思うこと」はいったいどこにいっているのだろう。本でも書いているのだろうか。ここの出力方法こそ、人間の創り出せる最も面白いものへとつながる技術に他ならないのだと、今週の僕は解釈している。なんとなく思っていたものが、今一つだけ結実したのだ。これだけ書いて一つだけ。僕はいつもそのために書いている。4000字書いて毎度ひとつだけ、あっと声が出るような文章を書くことができる。多くてもひとつで、少なくともひとつ。それを見た時、自分で書いているのに見た時、という表現がパッと出てくるのだから不思議だが、心臓の鼓動は早まって、大地が脈打っているのが足でないどこかの部位、むしろ末端ではなく僕の中心からそれはなっているような音というか振動というか、その存在を確かに感じ取ることができる。ひとめでそれとわかる。心の疼きでそれとわかる。もうひとつ不思議なのは、毎度それだけが喜びだと最後に気づくのに、毎度そのために書き始めているわけではないということだ。なまじ頻繁に顔を合わせているもんだから、そろそろ重厚な時間を共に過ごした盟友のような距離で、そこにいることが当たり前、大切さがわかるとしたらそれを失った時、みたいなテンプレートの盟友観に飲み込まれてもいい頃合いなのだが、そうはなっていない。毎日会えるか心配である。たとえば彼女とは絶対にそんな関係では居たくないと思ってしまうような、危うい均衡。ここで得られる喜びを失ったって、すなわち書くことをやめたって生きていく方法はありそうだとも考えるのだが、まあ、こっちを選ぶだろという。書き出す時前はいつもめんどくさいが、毎日なんとかめんどくささの隙をついて、あるいはたまたま体が動いていて、なにをするにも初動が億劫に感じないときついでに書き始める。でもこの喜びのためにやっているわけではない。なんかぼんやり書くかあ、書いたほうがいいよな、と手を動かす。指標はいつだって体の調子だ。僕は心を目にすることもできないし、耳や肌で聞くこともできない。だからというわけでもないが、とりあえず朝一番の肌のハリツヤ、鼻の調子、息苦しくはないか、腹の調子はどうか、コーヒーは深煎りのを飲めそうか、そんな辺りから観察していく。それ以外にないんじゃないかとさえ思う。あくまで今のところ、とりあえずは、という話であって、それがまた重要なポイントだと思うけれど。あと120字。珍しく最後の最後でゴールが遠い。今日はひたすら丁寧に書いてきたが、最後はまあ適当にいこう。これを書き終えたところで何も終わらない、なにかが始まる問いのは言い過ぎだが、なにもはじまらなくてもこれがまず終わらないから。無音にはならないから、真空にもならないから心配する必要なない。雑な仕事は嫌いだから、丁寧にちゃちゃっと。雑というのはそれだけで人を傷つける、とあるとき千葉雅也さんがいっていて心のどこかが救われた、スプーンでサクッと掬われたという感覚も、ただの駄洒落でしかないように見えて、実際にあったような気がする。よし、このへんにしよう。ぶった斬り気味だが。なんか、結構僕にとって大事なものをたくさん書いたような気がするな。それでもやっぱり、感覚としては、僕の見えている光のかたちでいうと、それは「ひとつ」なのである。

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