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〇〇〇>死にたいが現れる 第5回
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今年の年末は最悪の気分、スマホを投げ捨てたい、来年とかのことはあんまり考える気にならない、気持ちを上向かせようといろいろするからスマホを投げたくなる、スマホを投げてもガラスフィルムのひびができるだけ
「そろそろ12時でもいい。」
(千葉雅也、2024/12/31)
「うぜーから12月さっさと終われ」
「長いんじゃ」
「そばは美味いよ」
「それ以外なにも面白くないといえば面白くないよ」
「そばも美味いだけだぞ」
「でも悪くないなって気持ちにはなるから、生きてて」
「シフト出してないけど終わって欲しい、さっさと手遅れになってもらわないと」
「なげーね」
おもんなくはない。おもろくなくていいのも知ってるはずだがつまらない。なんやねんこれ、という気持ち。僕は、これを記録しておくべきだ。
なにわろてんねんとすべてに対して思っている。寝てもしばらくは治らない。エネルギーに満ち溢れていて、忘れることができない。こんなところに書いていては危ないが、これを読んでほしいと思う。こいつ今危ないぞと知ってもらえないとつまらない、はあ。頑張りすぎた。反省。なんとかこれを走り切ったところで何にもならないのだから、やはり自分を愛そう。
何にもいくな!そのまんまで、楽しくないけど、死んでもいい、寝ててもいい。生きててもいい、に僕は条件を求める、なにかをするには生きている必要があるが、だからなんなのかが重要で、それがわからない。ただスマホを投げるくらいだったら、ツイートに悪口を書いて、消したりしたほうがいい。
とりあえず食べることにはめちゃくちゃ興味がある。
頼むからみんなつまんなそうにしててくれ!と思っている。しかし言うのなら、ガチで頼む!の口調で言いたい。そうでないと、人に構ってもらいたいだけの感じを自他ともに認めることができてしまう。それじゃつまらないし、ムカつく。
12月中旬にはもう今年やってきたことが誇らしく、それに飽きて途方もなくこの2週間が長かったが皆楽しそうにしていて、ありえないほどムカついている、気に入らない、それで次の鬱に入っているらしく、また12月の頭に向けていろいろやって、誇って飽きて、鬱になる。
ということを、帰ってきたら大晦日のごはんの残りがある実家で、すきやきのつゆを飲んでにこにこするときもありつつ書いている。食べるのは好きなのだ。とてつもなく。
ということを大晦日にツイートで書いて、「〇〇〇>死にたいが現れる 第一回」が書かれた。それで今日で、いったん最終回。
「それにしても体裁は一応ドゥルーズ論だが、これはもうドゥルーズ論ではないのかもしれない。ドゥルーズとの格闘だ。別にドゥルーズを超えるとか、そういう野心ではない。テクストを読んでいると、格闘技をしたくなってくる。平穏な整理などできない。そのライブ感を残したままの論文になるだろう。」
(千葉雅也『ツイッター哲学 別のしかたで』より)
そろそろ最終回が近いような気がする。やってあと1.2回。第6回とか、言いたくないやろと。第7回は、坂口恭平さんのnoteでの連作というか連載というかひとつのシリーズがだいたいそのくらいなので、またいいなと思える。つまり第6回をいかにタイトルのところに書かないか、あるいは第6回を書いていると認識しないまま書き切るか、にかかっている。まあ続かなくてもいい。
前回は、前々回もか、これがタイトルになると緊張してダメ、やる気が出なかったが、今回はデカデカと先にタイトルを書いたほうが書き出せた。
千葉さんのツイートを、「ツイッター哲学」の一節を書き写すところから書き始めたいが、まっさらなところから書き出すのも億劫で、もともと書いていた「第5回」の続きにするのも違う。冒頭に差し込む。こういうのを、えー、エピグラフ。江藤さんのツイートは勉強になる。言葉としては聞いたことがあったけど、彼がいうとおもしろそうに聞こえる、そして僕もやってみることになるような気がする。ということは、こういう場で書くのも気持ちが悪いのかもしれないし、直接言うのもあれだ。それは恥ずかしいのだろうか、恥ずかしがること自体を後ろめたい、それから、こんな感じで今回は書き出すのだが、書けば書くほど死にたさとやらのことは考えていない。彼はとやら、である。もう、ではない。もはやでもない。が、たまたまでもない。
僕の動きがそれを生んだのではない。それがなにかのまわりの分子構造を圧して、そうなることに寄与した、ことに疑いの余地はないのだけれど、当たり前の話である。行動すればなにかが起きる、それも僕のなってほしい方向になっていくための小さなアクション、僕以外のものが「アクションする」。
さらに、自分で大晦日に書いた「死にたくなってもいいこと」についてのツイートを冒頭に差し込む。千葉さんのツイートよりも前に。僕にとって死ぬことよりやりたいことは、「死にたくなってもよくなること」だ。
死にたくなってもよくなること>死にたい。が現れた。1/4。シフト希望と最近のバイトの振り返りノートをいい加減に出す。
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それが私のやりたいことをやることで生まれた面白さではないのならば、私はそのとき死にたくてもいい。
ほんで今日中に第二回を書きたい。馬と人のナンバリングにどう組み込むか考え中。歌と人に一度打ち間違えて、それも書きたいが、ことばとのパクリすぎるかも。
僕がさんざん、見せつけるように当てつけるように「死にたい」を連呼するのは、それがスタンダードになってほしいからだ。死にたくてもいい、生きててもいい、どちらも大した励みにはならない。僕の問題は生きる死ぬ、にはない。
だから「死にたくてもいい」が一番欲しい。相当にそれが普通ならいい。
あ、一個目は「死んでもいい」
令和ロマンの漫才をみて、「俺も」とならないように(あるいは無意識的に)意識を変えるのは、死にたくなりたくないからじゃないのか。
そんなこと思ったら俺はなんなんだということになる。それでいいんじゃないのか。爪を噛んで、ガタッと画面越しの日向翔陽に釣られる青根みたいに立ち上がれば。俺が一番嫌なのは、俺を無理くり視聴者側に引きこんで、それをエモく感じるよう心がけて、あまつさえその次元で連帯なんてしてしまうこと。ガタッと立ち上がらにゃあ。この楽しみ方で60年(真っ先に浮かぶのはなぜかいつも80年)やっていけるのか。なんとか俺はならない。「なるように」が僕はそうなのだ
このへんは一度消して、コピペを原稿にしたほうがいいんだけど、それもちょっともったいない気がする。一度、少し心苦しいがタイムラインに残してみる。
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「鬱にライドして新シリーズ。やることは変わらず。だが風呂の中で新シリーズとして思いつく、看板、こうして今書いているアオリ文みたいなのの下に載るサムネイル、が頭にうかぶ。それを書く。僕はタイトルを作る人。」
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「調子が上がってきた。宮崎駿イメージボード全集のラピュタ編を買いたくなった。これでいったん何もやりたいことがないわけではなくなったが、2週間このままやってみたい。このタイトルで書き続けるのじゃなくてもいい。」
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「〇〇〇>死にたい〜の第4回のつもりで書いたが、文量が膨らんだしあんまり死にたいを上回ることを探してなかったので、馬と人にした。4000字にこだわらないというか、こだわりつつ、ガチでこだわる者による4000字の脱構築。3610字。」
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「今書いてるのは僕をワクワクさせるシリーズもの、馬と人はそうではないときの文章。書くこと自体が面白いので書けている。
とすると馬と人は常に僕にとっての「じゃないほう」で、カフカにとっても日記はきっとそうだった。今の感じだと日記は「であるほう」、馬と人は日記「じゃないほう」」
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「他者とは何かって、僕にとって、チャットとは何かなんですよ。それは順番がおかしい、根本的に錯誤がある、と批判したければ批判すればいい。少なくとも僕は、そういう探求を行う人生を生きることになった。」
(千葉雅也、2025/1/3のツイート)
「ちがう。 そうやっていつもあなたが言う「現実」を私は見下しているの。 私にとっては絵を描くほうが現実なの。」
マナさんはなかなか痛快なことを言います。
(鳥羽和久『おやときどきこども』)
僕はひらかれた場所でやるのが得意だから、そうしよう。ひらかれた場所とはネットだ。ネットに即投稿。ひらかれていない場所を(そもそもこちらがひらかれている側という感じ方自体が問題だが)見下すような言い方だが、僕のハイコンテクストに向う道を上へ上へと考えた場合、「見下している」ことになる、
僕の(目指す他者の仕事)が高次元で、その外は低次元で、高くあるいは深く見ることはおろか気にすることもできないから、そうとしか見えようがない。僕が僕の仕事をつくっていくのならこの「見下す」感覚をもっと物的に見ていかないと、そしてまずは悪いことじゃないと覚えておく。「物」としてみて。
「死にたくなくなること」じゃなくて、(でもいいのかもだけど、)「死にたくなってもいいこと」。「死にたくなってまでやりたいこと」でもない。死にたくなっても、問題なくできること。に近い。死にたいときにできるのはそれくらいしかない。それが、僕のやりたいことだったらいい。それを遡って探すのには、いろんな方法を先人が示してくれている。遡って、と申し上げているように、それは未来にはないのかもしれないが、僕が「はじめてやることにすら感じること」かもしれないから、未来に絶望する必要はない。だからといって、だからはじめてやることをやろう、という話ではないということで、それが僕にとっては大きな安心になる。はじめてのことなんてやりたくない、そうじゃないんだけど、あんまり、言わないでよ、やるからさ、と僕は言っていたのだ。やるから。黙ってたらやるからさ。あんたに黙っててほしいわけじゃないよ、おれが黙ってる。モクモクと、ケムリのように雲が絵画を超えた、ってそりゃ本末転倒か、そうでもないのか、雲が絵画よりも絵画だということがあり、昨日の電車に座っていた女の子は母さんに、子どもよりも子どもな喋り方、もうそれはゾッとするような、アニメの子どもみたいな話しかけ方を何度もしていた。それをみて、絵画のような雲のことを思い出していた、もうひとつ、並列して語りたいものがあったが今は忘れてしまった。なんだっけ、結構いきなひとしなだった気がするのだが思い出せそうにない。蛇足よりも蛇足。蛇足を超えた蛇足という倒錯。絵画が雲よりも雲を描こうとすることがそもそも間違っていたが、それは雲をみる彼らの声であって、雲を描く人には、そもそも届かないからなんてことはない。だから怒るのかもしれない。みかんを食べた。母がインフルになりそうで、僕も咳がでて、父も、僕が申し訳ないなーと思っていたら咳をしていた。咳をいましたら部屋には2人いる。母はインフルなので咳をする人、ではない。もう少ししたら家を出る。お餅を二つ食べたが、味噌汁みたいなものを飲んだほうがいい。お味噌で、お薬を使わずに喉を取り戻したいのだが、そろそろ風邪をひいておくのもいいのかもしれない。年始のボーナスというか割り増し時給で、潤っているというほどではないが、シフトが少し減っても気は紛れそうだし、第一お金のことなんてなんとでもなる。歯を磨いて、着替えて、その前にシフト希望くらいは出したい。死にたくなってもいいこと>死にたい