![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/170730804/rectangle_large_type_2_6eb517716d1a35b0f10d381a9a6d0195.jpg?width=1200)
「いのち」が「こしらえた ちいさな かぜ」…『ひばりに』
2024年12月27日、豊橋の二川宿駒屋で、
聴くことのワークショップ「澄まし処」を行いました。
お越しくださった皆さん。ありがとうございました。
駒屋の「はなれ座敷」は冬の風に戸をガタピシさせてて、なんだか参加者並みにしっかり音を出して存在感たっぷりでした。
駒屋さんでは10月4日にも「澄まし処」をしました。
その時お招きくださった方がその10日後に亡くなられ、
今、はるか遠い処へ。
帰り道に、9月にその方と一緒に行ったココア屋さんに立ち寄りました。
本棚に並べられた絵本のなかに、『ひばりに』がありました。
女の子が吹いたたんぽぽの綿毛が空に浮かんでいます。
「ぼくには ことばがない」の一行から始まる詩の絵本でした。
(内田鱗太郎/詩、うえだまこと/絵 アリス館)
聴くことのワークショップで言葉を見つめると、
言葉にしきれないことの果てしなさ、
心とは裏腹に言葉がついてしまう嘘、
そんなことが見えてきます。
だから「ことばがない」の言葉に一気に引き込まれました。
次のページも一行。「きみに かける ことばがない」。
そして、次のページ。
「ぼくは ただ すわるしかない
うつむく きみの となりに」
ああ、これは、ただただ聴く、聴き手のようだ、と思いました。
言葉というより、存在に耳を傾ける聴き手。
しかしそれを「いや」と否定して、「ぼく」は「きみ」が空に飛ばす
たんぽぽの綿毛になろう、といいます。
「そして とばされながら ひばりに はなそう
うつむいていた きみが かおをあげ
ぼくを そらへ ふいたことを」
「きみのいのちが じぶんで こしらえた
ちいさな かぜのことを」
ここまで来て、私は、あっと小さく声を上げそうになりました。
息、ではなく、「かぜ」という表現に。
亡くなったその方が主宰していたのが「風の自然学校」だったから。
私たち「いのち」はみんな、「ちいさな かぜ」を「こしらえ」ることができるのですね。
私たちの風。風の私たち。
亡くなった方が自然学校につけた名前、「風」に一つ意味が加わって、
あったかいココアとともに、おなかにストンと落ちました。
そして冒頭から読み直して、お!「冬の風」なんて無意識に
書いてるなあ。私たちは風と共に生きていますね。