近くて遠いもの。それはテーブルの上でステーキの形をしていたり、私の体を支える形をしていたり。
ステーキの焼き加減で一番好きなのはレアだ。普段家で食べるのは鶏肉が多いし、たとえステーキ用の牛肉を買ったとしても、衛生面が気になってしまい焼きすぎてしまう。私にとって理想的なステーキを食べようと思うと、やはり外食を頼らざるを得ない。
レアが好きというのはステーキに限った話ではない。ローストビーフや馬刺しなど、基本的に肉本来の色味を残した料理を好んでいる。この表現が正しいのかわからないし、真実も知らないが、これらの肉を噛みしめるときに感じる血の味というのを求めている気がする。この味を味わうためにこれらの料理を食べているといっても過言ではない。
しかし、これらの料理を目にするときに、必ず思い出す光景がある。まったく食事とは関係のない光景だし、気分を害する人もいるかもしれないので、少なくとも食事中の人は読まないでほしい。
人生で一番多感といってもよい時期、思春期を公立の学校で過ごせたことはある意味で幸福だったと思う。受験によって生徒の属性が限定されないために、本当に多種多様な人間に出会うことができた。受験によってその学校に所属する人間に、ある程度の同質性がみられるようになってから、私はそれまでに比べてずいぶん生き易くなったように感じる。それでも、それまでに経験した生き難さ全てを経験したくなかったわけではない。むしろそれによって世界を知ることができたし、私という生き物に奥行きが出たように感じる。本当に貴重な体験であった。
中学校では、やはり思春期ということもあって、さまざまな問題を抱えている同級生が多かった。公立の学校であったことも、起因しているかもしれない。喫煙や飲酒をする不良少年・少女はもちろんのこと、家族との関係が上手くいかない、友人関係が荒れている、将来のことで不安を抱えている、そんな話を聞くことは少なくなかった。その中でも、高校受験というのはさまざまな問題と関連して、多くの友人に不安を抱かせていた。
高校受験を迎えるにあたって、考えるべきことはたくさんある。まず、自身の学力をその学校に見合うレベルまで上げなければならない。そのレベルまで上げたとしても、その学校を受験する他の受験生と比べてよい点数を取らなければならない。第一志望が不合格であったときのことを考えて、滑り止めの学校も選ばなければならない。私の地元では滑り止めの学校は私立であることが多かったから、公立の学校に比べて高い学費のことなども少なくとも頭に入れておく必要がある。兄や姉がいた場合、両親から比べられるその圧力に耐えること、妹や弟がいた場合、彼ら彼女らのために公立高校に合格する必要があること。本当に、私もたくさんのことに頭を悩ませた。
その友人は上に姉か兄(もしかしたら両方だったかもしれないが)がいて、それによって両親から「あなたも彼、彼女のように」といった圧力をかけられていた。良い成績を取って、良い高校に進学しなさい。お金のかからない公立に進学しなさい。それは彼女にとって非常に辛いものであったようで、私も話を聞くたびに疲れた表情を見せる彼女に、家庭によってここまで受験に対する姿勢が違うものだと驚愕した。そうして気が付けば彼女はリストカットに手を出していた。多分、最初にその手首に傷をつけたのは冬のことだったと思う。私は彼女に言われるまで気が付かなかったけど、冬であれば手首が隠れるからリストカットが楽だと言っていたのをよく覚えている。
その友人は私に、リストカットについてたくさんのことを教えてくれた。どのように傷をつけるのがよいのか、傷はどのくらいで癒えるのか、自傷行為によって得られる感情はどのようなものなのか。部活の合間や学校からの帰り道、休日に遊びに行くほどの仲ではなかったけど、彼女はたくさんのことを私に打ち明けてくれた。きっと当時の私は、そんな世間から隠すべき事柄を打ち明けてくれることに優越感を感じていた。今こうして文をしたためている最中であったとしても、その優越感というか、特別感というか、そういった感情が沸き上がる。きっかけと、それを後押しした感情はそんなものだった。
夏休みのことだったと思う。誰もいない校舎を私たちの部活で独占して、好きな場所でそれぞれ練習していた。窓から入り込む風だけが涼しさをもたらしてくれる環境で、私たちは顧問の目が届かないことを利用して多く休憩していた。そんな休憩の中で、そういえば、夏になってから手首を隠していない、という話になった。彼女は徹底して傷を隠していたから、新しい傷のついていないその手首に、てっきり自傷を止めることができたんだと勘違いした。彼女は手首をさすりながら、一目についてしまうとやはり止められる、夏服では傷を隠すことができないから、この時期は手首を切らないようにしていると教えてくれた。絆創膏をはる、リストバンドをつけるといった対策は取れるものの、やはり違和感はぬぐえない。一度手を洗うときに傷について聞かれたらしい。その時から手首を切るのは止めたと言っていた。だから、そう、夏の時期は太ももを切っている。そういって見せられた太ももに刻まれた傷を、私は一生忘れることはないだろう。
太ももには隙間を埋めるように一文字の傷が刻まれていた。刻まれた傷は、きっと体操ズボンと直接擦られるからだろう、全て赤みを帯びていて、私にはどれが新しいもので、どれが治りかけのものなのか、全く見当もつかなかった。傷の中心は赤く、ところどころ白く膿んでいて、外側から覆わんとかさぶたがついている。無造作のようで規則的にその太ももを埋めていた傷を見て、私は不謹慎ながらもテーブルの上に並べられたステーキを連想した。肉汁が赤く滴る、外側は鉄板で焼かれ焦げ目のついた茶色、外側によって守られた内側は新鮮な赤色、そんなイメージが沸き上がった。私がそういったことを考えているのも露知らず、彼女は話を続ける。手首を切れなくなってから、太ももを切ることにして、人に見られない安心感がこの行為を促進させた。手首を切っていた時よりもずっと多く太ももを切るようになった。安心する、気持ちがいい、切る度にストレスが無くなっていくのを感じる………。
彼女が自身の首を絞めていることも知っていたから、それに比べれば致命的ではないその行為に、少しだけ安心を覚えた。それでも、それまで感じていた優越感を、恐怖というか、そういった感情が上回った。その時の私は彼女になんと声をかけたのだろうか、傷が残ってしまっては勿体ない、なんてありきたりな言葉をかけたような気がする。今思えば彼女は今を生きるのに精いっぱいで、日々延命するためにその傷を刻んでいたのかもしれないと思うと、私のかけた言葉は適切でなかったように思う。彼女の生を支えていたのはあの傷の数々で、あれがなければ本当に縄に首をかけていたかもしれない。………この一件をきっかけにして私は彼女とそういった話をすることはなくなった。部活も終わって、物理的なきっかけが途絶えてしまったこともある。結局、彼女は志望校には受からなかったようだった。滑り止めで受けた私立に進学することになった。そう伝えてくれた彼女は、それでも、太ももの傷を見せてくれた時と比べてずいぶんと晴れやかな面持ちであったように思う。
何のために食事をするのかと問われれば、まず第一に生きるためと答えるだろう。その次には、私であれば、生きることを楽しむため、と答える。大変なことがあれば美味しいものを食べて活力を身につけたくなるし、悲しいことがあればご褒美として甘いケーキを用意する。食事を通じて得られる感情体験を他で置き換えることはできない。少なくとも私は、つらいことがあれば深夜のラーメンだって辞さないし、山盛りのタスクは糖分とともに乗り越える。時に過剰摂取した脂分で胃腸を痛めようとも、私はこれを止められない。
きっと彼女が傷を刻んだ時に感じたことと、私が食事をしている時に感じることは、本質的には違っていない。今を生き抜くために、今、目の前にある問題を乗り越えるために、少しだけ寄り道をする。寄り道をした先で擦り傷をこさえようとも、それは気にならない。それよりも、寄り道した先で体験できた感情に救われる。そうしてまた問題に向き合えるようになる。これを繰り返して、明日に出会うことができている。
生きるために食事をする。わかりやすく大切なことだ。
生きるために自分を傷つける。受け入れられない人もいるけど、当人にとってそれ以上の希望はない。
どちらも明日を生きようとする意志の表れで、きっとその人生を歩んでいる人にとっては同等の価値を持つものだ。いわば、戦いの中で刻んだ勲章のようなものであり、その先の人生で癒えない傷痕を抱えて生きることになったとしても、その行為全てが無意味であったと思うことはないだろう。
………とはいえ、私はリストカットなどといった自傷行為をしたことがないので、現在の彼女はそれを黒歴史のように感じていて、その傷を苦々しく思っているのかもしれない。きっと彼女の太ももに刻まれた傷痕が癒えることはない。それをいつか悔いる日がくるのかもしれない。それでも、今を生きるからだを支えるすべてに勝るものはない、と私は勝手に解釈する。
もし、また彼女と再会することができたら、今を生きる彼女の話を聞いてみたいと思う。
追伸:
しかし、もし本当に自傷行為で悩んでいるのであれば、迷わず心療内科やカウンセラーを訪れてほしい。そうした精神状態でどうしようもないのであれば、適切な治療を受けることが最善である。「こんなことで」「みんな同じように悩んでる」「まだ大丈夫」………そんなことはない。傷は浅い方がいいし、今放置した傷が膿んで別の病気に発展するかもしれない。まずは落ち着いて、その状態を客観的に判断できる人の元で指示を仰ごう。悩み事を必ずしも信頼できる人に打ち明ける必要はないが、少なくとも、あなたの悩みを否定しない人に告白するのがよい。今を精いっぱい生きてきたあなたを第一に責めない、そんな人に打ち明けることが改善への第一歩である。