死ぬには不十分な憂鬱
いつ死んでもいい、と思っている。
だが別に自殺志願者ではない。
積極的な死を所望しているのではなく、消極的な生を甘受しているのだ。
将来への羨望が生への執着心を担保し、未達成な未来が死への恐怖心を増長する。
帰る場所もこれから進む未来もないものは遭難しても帰ろうとはしないだろう。
将来への希望があるものは、それが達成されるか否かは別にして、生きる気力は持っている。
なんとも羨ましいことに。
現在は未来によって定義され、過ぎ去った後に評価される。
未来を想像できなければきっと現在は意味を持たない。
5年後を期待して生きることなどできない僕は、現状を漠然と生きている。
しかしそんな毎日を送り5年後を迎えることはおそらくできるだろう。結局なんの意味もないのだが。
僕にもっと憂鬱を与えて欲しい。死にたいと思うに足るほどの。余命でも宣告してくれたらいっそ楽だと思う。だがそうだとしても、きっと結局現状は対して変わらない、未来の無い今を生きている人間など、死んでいるようなものなのだ。
結局のところ、僕のような人間は、常につきまとう憂鬱を忘れるために酒を飲み、もはや不可能だと知った、未来への希望を一瞬でも味わうために、ギャンブルに励むのだろう。