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白ちゃんの旅立ち

 白文鳥の白ちゃんが鳥さんの楽園へ旅立って百箇日が過ぎました。
2020年の年末辺りから呼吸に異音が混じりだし、一時は持ち直したものの、さえずりも求愛ダンスもできないまま、白ちゃんは天に召されました。  「ペットロス」の言葉を知っていても、幼鳥の頃より病気知らずの白ちゃんとは結びつかなかったし、私たちには関係ないとも信じていた。 
 突然ぷつんと断ち切られた2人と1羽の生活。
この喪失感から抜け出せる日が来るのだろうかと危ぶんだけれど、住人(鳥)のいないケージが視界をかすめても、もう胸はきゆっと痛まない。
体を脱いでも、白ちゃんの魂は生きているからです。

 ムスメと2人暮らしの我が家で白ちゃんは、群れのリーダー、お留守番係、見守り隊&癒し隊(1羽だけど)として暮らしを支えてくれました。
 「ちゅんちゅん(注:なぜか起床時は雀のように鳴く)」とケージを覆う布越しに漏れてくる、白ちゃんのさえずりで我が家の朝は始まります。本人(鳥)が気分の良い日は、朝イチから求愛ダンスを披露してくれることも。その後「学校行きたくないなあ」とぼやくムスメを、私の手のひらに座り玄関まで見送ると、パソコンに向かう私の背後で白ちゃんは休憩に入ります。さえずりを披露したり、シードをついばんだり、私が席を外している間に水浴びを楽しんだり(白ちゃんは水浴びを見られるのを嫌がる。恥ずかしいらしい)。そうこうするうちにムスメが帰宅し、玄関からケージへ直行した彼女と白ちゃんは、しばしの別れのあとの再会を喜びあうのです。
 鳥のつがいは仲睦まじいとは聞くけれど、毎回離れるたびに親愛の情を交わすなんて大袈裟だなあ。そう私は内心感じていた。でもそれは、「もう会えないなんてあるわけがない」と油断して、かけがえのない時間の大切さを見過ごしてしまう、人間の愚かな錯覚だと今ならわかります。

 いつもその瞬間、瞬間を生きていた白ちゃんは正しかった。日常にまみれていると、お互いの持ち時間が有限だということを忘れてしまう。それに気づくのは、大切なひとを失ったときだなんて。
では、白ちゃんの死に後悔しているかと問われたら、そうでもないのです。

症状に適したお薬に変えてもらえるように、先生へ相談すればよかった。
動画を撮影して診断をしてもらうやり方を、早く採用すべきだった。
テスト中とはいえ夜遅くまで起きているムスメに、「もう少し静かにするように」と伝えるべきだった。
体力温存のために大好きな水浴びを控えさせていたけれど、もっとさせてあげればよかった。
加湿と保温を徹底したら、あと少しでも延命につながったかもしれない。

 反省すべき事柄は多くあれど、思いのほか悔いはありません。
「白ちゃん、ママとお姉ちゃんのところへ来てくれてありがとう」「白ちゃんは飛べなくても、ダンスが出来なくても、いるだけでいいんだよ。白ちゃんだいすきだよ~」と、毎日語りかけていたからです。
1人と1羽の熱愛にあきれる一方で、「ママは白ちゃんに甘いよね~。猫可愛がりしてる」と、私もムスメにたしなめられていた。温泉のように湧き出る愛を、お互いに循環させていた間柄では「やり残した感」がないのです。

 愛を出し惜しみしなくてよかった。
ふわふわの白ちゃんに触れられないのは悲しいけれど、実体は見えなくても気配は感じ取れる。白ちゃんから注がれた無償の愛は、私の心を晴れの日も雨の日も照らしてくれています。

 毎朝、白ちゃんのいたケージの扉を開け、水浴び器をセットして、飲み水とシードのご飯を遺骨の前に供える。もちろん声がけも忘れずに。ムスメは大学生になったら下宿先にケージを持っていく予定だけれど、この習慣はいつまで続くのだろう。ただ、どうであれ白ちゃんの面影は消えないし、私たちは一緒です。


 



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