映画、という旅の途中で
映画はもはや変質したのか
アカデミー賞の季節も過ぎて、季節も春。
だが、私は未だにそのアカデミー賞の話題作なるものを見ていない。昔は喜び勇んで、賞を獲った作品を見に出かけたものだが、ある時からそれをピタリ、と止めてしまった。
なんか躍らされている気がして(笑)。
それは多分、何かの賞を獲った映画があまりにも私の感性と合わなかった事に原因があるのだが、それがどんな作品かは忘れてしまった。
だが、それ以来テレビやメディアで煽る映画は信用ならない、さらにはオシャレな雑誌なんかでも書かれるミニシアター系もまた、疑ってかかるようになった。
以来、私の映画の旅はもっぱら旧作へと向かった。映画がまだ本当の自由に満ちていた頃の、CGやマーベルに毒されていない時代の作品。忘れ去られた記憶の隅に存在した映画を求めて。そしてそんな映画は当然、デジタルで作られてはいない。
フイルムで作られた映画だ。
だが、当然今の世の中、フィルム上映館も淘汰の一歩。だが、デジタル化されていても元はフィルムで作られたものには格式が漂う。
光と影。
映画が映画たる所以はこの2つの対比がイコール人間の葛藤、対立、そして善悪などの二元論と、その間にある曖昧さを視覚として提示するからだ。そのコントラストこそがくっきりと浮かび上がらせるものがフィルムの魅力なら、今時の映画にはそれはない。
「第三の男」で、死んだはずのハリーライムが浮かび上がるときの魅力、はたまたハリーが下水道へ追い詰められた時の焦燥感を、地上の光と下水道の闇で魅せたショット。
ルキノ・ヴィスコンティ「白夜」で、喪失した愛を取り戻した娘と、手に入れた愛を喪う瞬間の青年の姿もこの光と影が全て、だった。はたまたカラーで作られた同じ原作のロベール・ブレッソン版「白夜」もまた、その光と影の微妙なバランスをローキーの光と影で魅せた。
そこにはモノクロとカラーの差こそあれ、やはり映画がフィルムだった事の優越性がある。
だが、この間見た「アイ・フランケンシュタイン」という映画にはそれがなかった。天使と悪魔、その狭間に生きる魂のない怪物と人間。4者が関わる物語にフィルム的陰影がない。なんだろう、この違和感は?
魂のない怪物が魂を得る、という物語なのに。
昔、写真を取られるのを嫌った人々は、それが魂の喪失を危惧したから、と言われたが、むしろデジタルの方が魂を描けないとは何なのか?
あくまでも私の偏見、なのかもしれないが。
技術革新、という言葉の裏で消えていく先人のマニュファクチュア。カメラもまたフィルムを捨てた。一方で死んだはずのレコードが復活している。すでにCDどころか配信の時代において、かつての文化がブームになる。
フィルムとレコードの共通点もまた、光と影の様なものなのでは、と思う。生音に近いものを溝によって再現するレコード。フィルムもまた、そんな生に近い空気を映像に捉えるものだとすれば、やはり我々が見ている映画、という媒体もまた似て非なるもの、なのかもしれない。
映画の進歩、だが、それは映画の変質。
両者は共存するのか否か。
私には分からない。だが、脚本家の私が断じて思うのは、物語の陰影なくして映画は成り立たない、という事。それを蔑ろにしている現代の映画に魅力を感じないのは、私が古い世代に属した人間だからかもしれない(笑)
さて、今年のアカデミー賞はアジア旋風が巻き起こったらしいが、この数年のどこかポリティカルな風潮が余計映画を私から遠ざけている感じがして、素直に喜べない。不思議とその映画も見たいという気にはならないのは、やはり私が今、テレビを見ないというものと関係あるのかないのか。
東京にいて、世捨て人に成りつつある今日この頃。
本日の映画。
「第三の男」1949監督キャロル・リード
「白夜」1957監督ルキノ・ヴィスコンティ
「白夜」1971監督ロベール・ブレッソン
「アイ・フランケンシュタイン」2014
監督スチュワート・ビーティー
追記
本日、GyaO!がなくなった。無料動画配信の草分け的サイトがなくなり、映画というものが流れる媒体も少なくなり、ますます映画を取り巻く環境は変質していく。最後の最後にリチャードアッテンボロー監督作「マジック」を見られたことは感謝感謝🎵
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