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映画、という旅の途中で

何かの間に線を引く、という事

ある町に突然、線が引かれた。
それは国境、という名の線。
それまで一つの町だった所に、外部から勝手にここからがAが支配する、こちらはBのもの、と町の議論も何もそっちのけにたった一本の線が人々を隔てる。
これを理不尽、と言うのは簡単だ。
ところが、世界ではそれをいけしゃあしゃあ、とやってのける輩が存在する。それを人々は国家、というが、国家だけではない、声のデカイ奴が平気でそんな事をやる世界。線は見えずとも、規制だの、区別だのと屁理屈を並べ立て、今まで寛容でよろしくやってきた人々の絆に線を引く。この数年の流行り病で、そんな人間の愚かさは加速し、口オムツと過チュー射で未だにこの国の人々の間に線を引く権力者たち。世界ではもうそんなもん、意味はない、止めよう、とやっても頑なに責任取らされるのが怖くて、また波がやって来ると煽る分断者たち。

さて、冒頭に書いた一本の線によって町が分断された悲劇を描いた1950年製作のイタリア映画「白い国境線」を見た。北イタリアの小さな村の真ん中に白墨、とともに国境が引かれた。イタリア側とユーゴスラビア側、として。だが当然、人々の反発が起こる。農園を持っていた家族は途端に土地を接収され、簡単に行くことは出来ない。そこには銃を持った兵隊がふんぞり返っているからだ。そして何より可哀想なのは、それまで仲が良かった子供たちが分断されてしまった事。特例で学校に通うのは認められたが、いきなり苛めの対象になる。そんな子供の姉は二人の男の間で揺れ動く。反対側に住む青年と、反対側から逃げてきた政治犯の青年。
「こんな理不尽は許せん」
と、土地を接収された家族は政治犯の青年を匿い、ますます人々の間で『分断』は進む。
昨日までご近所だった人々が、今や敵と味方。
こんな理不尽があろうか。
だが、子供たちは正直、だ。
たった一つの投石、で主人公が怪我をした事で再び絆が生まれる。
「ごめんね」
「こっちこそ」
素直になれば何かが生まれる。
だが、大人はそれを理解出来ない。
その結果、何が起こるか?

監督のルイジ・ザンパはその前に「平和に生きる」という喜劇絡みの戦争ものを撮っている。こちらはやはりイタリアの片田舎に二人のアメリカ兵が迷い込み、ナチスの監視下(と、行っても飲んべえのおっさんがいるだけののどなか風景)で彼らを匿った一家の話。そんなナチスのおっさんと黒人兵が、なんと意気投合してジャズを肴に主人公のかみさんや娘と踊りまくり、飲みまくる。それを見て戦争が終わったと勘違いする村人が大騒ぎ、と当時の映画としては実にいいアイデアで魅せるが、それでも最後は悲劇、で終わる。
この「白い国境線」は完全なる悲劇、というか、このベースにはやはり「ロミオとジュリエット」があるのか、愚かな大人の論理が無垢な子供たちの悲劇で破綻し、後悔する、というオチで終わるのだが、さて、この映画を単なる寓話、物語で終わらせていいものだろうか?

我が国の隣に全く同じような事をやってる国がある。同じ民族なのに、70年以上もいがみ合う2つの国。
はたまた今、同じようにいがみ合う東欧の国がドンパチやらかしている真っ最中。それが他国に飛び火し、どっちがミサイルを撃った、となすり合いをやる姿に呆れつつ、なら、我が国はと言えば、未だに「あの分断」を解消しないまま、あれを打った打たない、で国家が差別を助長する現実。その洗脳にさらされた人間は未だに多い。おかしい、と叫ぶものなら同調圧力でダンマリ、を決め込み、嵐が去るのを待つ。
で、その嵐はいつ去るの?
隣人が敵になる馬鹿馬鹿しさ。
それを未だに子供に強いる大人の愚かさ。
その悲劇が現実化、している事さえ反省しない大人と羊の群れ。
映画、どころの話ではない。そんな馬鹿げた事を止めようとしない。
まさに現実は小説より奇なり。

そろそろ引かれた線、を取っ払う勇気を持たなくてはいけないのでは?
グローバリストが仕掛けた国境線、を我々は友愛の気持ちで消す勇気を持つべきでは?
互いを認めつつ、それでも私は私、あなたはあなた。生き方は干渉しない。
それが自由、の真髄であり、かつての戦争で我々が学んだ最大の事、であったはずだ。
「ごめんね」
その一言を言う勇気。それが線を消す、最大の言葉である、と私は信じる。そうすれば人々はこういうはずだ。
OK、と。

今回の映画。
「白い国境線」1950年
「平和に生きる」1947年
共に監督、ルイジ・ザンパ。

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