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映画、という旅の途中で

映画鑑賞は量か質か

1日一善、ならぬ1日一本、映画を見ても年間で365本、しか見られないという「現実」と、1年間で日本で公開される映画の量、というもの、さらには世界で作られる映画の量、という「現実」を考えると、映画というアート(はたまた消費文化)が発明されてからの、数えきれない作品の中に、果して私の望む宝、のような映画は何本未だに知られずに眠っているのだろう?

とにかくマスコミ媒体では、毎日の様に新作の映画を宣伝している。常に新作、でなければ彼らは売れない、と錯覚でもしているかの様に、話題の○○、全米第一位の○○、アカデミー賞最有力の○○、と使いふるされた冠をつけて、まるで見ないと腐ってしまう生物の様に電波に乗せる。だが、かつてのように映画館に行かないと見られなくなる時代とは違って、数ヶ月後にレンタルや配信に流される現実を前に、生物はまるで保存食品の様に、気付いたらそんな映画があった事さえ記憶から忘れ去られる。もはや映画とは特別なもの、ではないのか?

それでも私は映画の海を泳ぐ。
映画の山を登る。
映画と一緒に呼吸し、映画と共に眠る。
そこに映画、がある限り。

だが、もう何十年も映画を見てきてふと、思う。いったい、この旅の行き着く先は?
まるで映画とは手からこぼれ落ちる砂金、の様なもの。ハンフリー・ボガートが「黄金」で手に入れた砂金が風で飛ばされていく、その空しさの様に。
手に入れても手に入れても、まだ欲しい。
もっとすごいものがあるはずだ、まだ自分の知らない物語があるはずだ、見たことのない輝きに出会えるはずだ、と映画と名のついたものを片端から見まくって来た。
新作、と聞けば飛び付き、つまらない、と吐き捨て、いや、宝は過去にあるかもしれない、とかつては名画座やレンタルビデオ店の棚の端々を、さらにはYouTubeの秘境迄、ありとあらゆる宝さがしに出掛けて。

そして気づく。
金にだって値打ちのあるもの、とそうでないものがある。映画もまたしかり。
映画は〈質〉、なのか〈量〉なのか。
素晴らしい映画に出会えば、それだけで心は満たされる。だが、ひどい映画に出会ったら心は落ち着かず、次はいい映画に出会いたいと思い、またクズを引く。
映画とはまさに人生、そのもの。

私の映画人生はナスターシャ・キンスキーのショートカットの写真で始まり、スティーヴ・マックィーンのカッコよさに憧れ、「ゴッドファーザー」と「ドクトル・ジバゴ」で決定的になった。多感だった少年時代、田舎で見た異国の世界は、映画という魔法によって培われたものだった。

そして、都会に出て本格的に映画館に通った中で出会った古い日本映画のモノクロ画面に、かつて銀幕、と呼ばれた映画の輝きを見た。それ以後、映画を見る事はご飯を食べるのと同じ、かのように当時、隔週発行されていた雑誌〈ぴあ〉をめくっては、自分の知らない世界へ誘う映画を求めて旅、をした。

そして今、映画、と違う意味で向き合っている。かつて量、で生きてきた映画の旅。今や体力も衰え、数をこなせなくなっているのも原因だが、結局、同じパターンの話のぐるぐる迷路に飽きてきたのだ。特に昨今は企画が枯渇しているからか、ハリウッドはリメイク、リブートのオンパレード。どんなにパッケージを代えても中身は古い昔の味(笑)、スパイダーマンもバットマンも何回やれば気が済むのだ、いや見れば気が済むのだ?

結局、オリジナルが一番、に落ち着くと、映画はやっぱり質、なんだな、と旅の途中で思いつつ、だが、その足を止めるわけにはいかない。本日もかつて見た古い映画のDVDを取り出し、何度も同じ箇所で涙を流す。そして新しい発見に心を踊らせる。

今日の映画はトリュフォー「突然炎のごとく」だ。私は再びジャンヌ・モローに恋をする。

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