見出し画像

『オウルシティと“傷無し”』中編

 ——13歳の夏。
 母さんは俺が中一の時に、死んだ。

 母さんと姉貴と俺の三人で海に行った時のことだった。母さんは海で溺れていた他人のガキを助けに入って、自分も溺れた。そりゃそうだ。母さん、カナヅチだったからな。溺れるって、解っていたはずだ。でも入った。それで当の本人、つまりそのガキの親はその間どうしていたかっていうと、浜辺で慌てふためいて「助けてください!」と叫んでいただけだった。そいつも泳げなかったらしい。

 俺と姉貴が海の家から帰って来て、わめいているそいつを見て、すぐに状況を察して助けに海に入ったが、溺れながらも子供を何とか息継ぎさせていた母さんは、代わりに水を飲みまくって意識を失っていた。心臓マッサージをしながら救急車を呼んだ。救急車はほどなくして着いたが、乗ってからが長かった。細い道で、救急車がサイレンを鳴らしても抜けられないところで渋滞にはまっちまった。救急車内のスタッフも力を尽くしてくれたが、結局病院に辿り着くまでの間に母さんが息を吹き返すことはなかった。心停止してからあまりに時間が経っていたため、病院に付いてすぐに臨終を知らされた。

 母さんに助けられた子供もその親も、お礼どころか、死にそうな母さんの状況を見にも来なかったが、その時の俺にはそんなことどうでもよかった。俺の前に横たわる真実は、母の死だ。誰かを助けたんだとか、そんなことを考えても意味ない。未来ある子供の命と一緒に天秤てんびんに掛けられてたとえかかげられたとしても、失われていい命ではなかった。

 次の日、ニュースで知らされたことだが、あの時あの海岸沿いの道に発生していた渋滞は、浜辺に打ち上げられたイルカを救うために、動物愛護団体がバカでかいトラックを水族館からチャーターして運搬しているうえ、それを撮影するためにテレビ局やら野次馬どもが殺到したせいで起きていたらしい。

 クソ!

 イルカは無事水族館に付いて、一命を取り留めたらしい。

 クソ、クソ!

 母さんの葬式の時、参列者の中の親戚らしき奴が、姉貴に向かって慰めるように言った。

「お母さんは、運が悪かったのよ」

 クソ、クソ、クソ!

 姉貴はその言葉を聞いて泣き崩れた。ただでさえ泣いていたが、更に大きな声を上げた。姉貴に向かって慰めにもならねえ言葉を神にでもなった気で言い放ったそいつは、姉貴の頭を撫でて恍惚こうこつとした表情で「大丈夫よ」と言っていた。

 俺には、姉貴が慰めに心打たれて泣き崩れた訳じゃあないってのが解った。姉貴は「母さんは運悪く死んだんじゃあない」って抗議したかったんだ。母さんは、子守りもまともにできねえどこぞの糞親と、イルカと動物愛護団体の野郎どもとマスコミの馬鹿と意味なく息を吸ったり吐いたりする野次馬どもに殺されたんだ。あいつら全員殺して母さんが生き返るならそうする。神が許さないなら神も殺す。ついでに真実を知ろうともしない親戚連中のクソどもも全員ぶち殺す。

 母さんの葬儀の間中、俺は怒りに打ち震え、人を殺すことばかりを考えていた。
 葬儀がいつの間にか終わり、怒りが溢れてはち切れそうになった頭を抱えて突っ立っていた俺を、姉貴は優しく抱きしめてくれた。

「これからは私がゼンを守るからね。大丈夫だからね」

 さっきまで泣いていた、自分だってギリギリの精神状態のはずの中放たれた、《《か細い大丈夫》》。同じ大丈夫という言葉でも、ここまで違うのかと思った。同時に、あいつはよくもまあ軽々に同じ言葉を意味もなく振るえたもんだ。とも思った。

 それから姉貴は高校生とは思えないほどのバイトを掛け持った。俺が高校に行くための学費を稼がなければいけないようだった。俺は中学生でバイトができ無かったから、新聞配達と家事を一手に引き受けた。

 姉貴はいつからか煙草を吸うようになっていた。多分、母さんが死んだ時からだろうと思う。母さんが吸っていたのと同じCABINキャビンを吸っていた。

 自分は高校に行かなくてもいいと言ったが、「私だけ高校行けるなんて、不公平でしょう? 絶対に《《運が悪かった》》なんて言わせないわ」とズバリ言われて、それ以上返す言葉も無かった。
 運悪く。母さんの死も、俺の進路も、そんなもので片づけたくないという気持ちは、痛いほどわかった。だから俺も志望校に合格できるように、新聞配達と家事のかたわら勉強を頑張った。

 そんなことが二年続いた。中学三年目のある日、姉貴はやつれた顔を明るく染めて俺に言った。

「ゼン、これからは新聞配達しなくていいわ。その代わり、一人になっても頑張ってね」

 言っている意味が分からなかった。

「私、フォルトレスっていうのになったらしいの。それが何なのかいまいち分からないんだけど、私の体を調べれば、人の役に立つらしいわ」

 嫌な予感がした。

「だから、私はこれからフォルトレスの研究をやっている施設に入って、調査されるの」

 とても嫌な予感がしたんだ。

「ん? なあに? そんな顔して。ああ! 解った! 寂しいんでしょう! いつまで経っても甘えん坊さんなんだからあ」

 そうじゃあない。

「ふふ。冗談よ。大丈夫。ゼンはもう十分大人だからね。だから、一人でも大丈夫。あ、お金の心配はしないで。今までのバイト代とは比べ物にならない程の給料が貰えるから」

 そうじゃないんだ。

「不安? でも、国の研究施設だから。訳分かんない危ない所に行くわけじゃあないから」

 とにかく行っちゃあ駄目だ。そう思ったが、声には出せなかった。
 なぜって?
 やつれ切って今にも目玉が落ちそうな顔、一人っきりでギリギリまですり減らした精神、潤いを無くしてガサガサになった指先……。そんな姉貴がようやく楽できるって喜んでるのに、なんだか嫌な予感がするからここに残ってもっと俺の為に働いてくれよって言えるかよ! ……言えるかよ。

 だから俺はなるべく平気そうなフリをして、

「ありがとな、姉貴。頑張れよ」

 そう、エールを送るしかなかった。

 姉貴が施設に働きに行ってからというもの、俺はテレビと仲が良くなった。勉強と家事とテレビ。その時の俺にはこれだけだった。

 ある日の夕方のニュースで、見覚えのある顔が映った。画面にはおびただしいほどのフラッシュ。俯き加減の顔、乱れた髪を見て、思い出した。間違えようもない。母さんが助けた子供の母親だ。その母親がテレビに映っている。テロップには『長男を殺害。何年にもわたって虐待をしていた』と書いてあった。

 殺害?

 虐待?

「ああアアアアアア!? アアぁぁぁァァァァアアアアアアア! ああああああああああああああ! アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア! あああぁあああああぁあああああああぁぁっぁっぁ……!!」

 気付いたら俺は、リモコンを持ったままテレビを殴っていた。画面が割れていた。真っ二つに折れていた。俺は血の滴る拳を見つめ、荒くなった息が戻るのを待った。

 どこか、心の隅の方にあった、微弱な光。小さな救い。当時は絶望に暮れるあまり、どうでも良いと思っていた、俺の母さんの死は決して無駄じゃあなかった、という事実。その思いは時が経つにつれて、とても大切なもののように感じるようになっていた。受け止めきれない大切な人の死。その死に意味を持たせるのは、残された者の特権でもあると思った。
 だが、死を穢すのも生者の特権であることを今知った。

 いったい何のために母さんは死んだんだ。いったい何のために姉貴はあんなになるまで働いたんだ。何のために、何のために……。

 誰も救えないこの手はなんだ。いったい、俺は、なんなんだ。

 そんな時、不意に電話が鳴った。

「渓谷然壽さんですか。あなたのお姉さんが、急死しました」

 ——ここは、どこだ。




 施設から返された姉貴は、衣服を着ていなかった。ほとんど皮だけであばらが浮いていた。衣服を別で渡されたが、硬直した体をどうやって動かしていいかもわからず、ただ体の上に乗せて、「ごめん」とだけ呟いた。その時初めて、自分の声が掠れているのに気が付いた。

 姉貴の葬儀の時、珍しい奴が顔を出した。

「久しぶりだな」

 親父だ。俺は挨拶の代わりに問いを返した。

「なんで母さんの時は来なかった」
「そりゃあ、色々あるんだ。こっちにも」
「ならなんで今回は来た」
「自分の娘だぞ?」

 今更父親面しやがって。
 なんでお前が生きているんだ。
 そもそもお前がクソ親父じゃなけりゃ、離婚もしてねえ。母さんは溺れてねえし、姉貴も施設に行ってねえ。
 そう食って掛かりたかったが、その時の俺は虚脱状態で、それ以上会話を続けることはできなかった。

 葬式が終わったあと、親父は俺のところに来て済まなさそうな顔をして手を合わせた。

「わりぃが、ちぃとばかし、貸してくれねぇか?」
「どうして」
阿弥奈あみなが死んじまって、誰も金をくれなくなっちまったからな」
「あ? じゃあ、今まで……?」
「ああ、あいつは困った人間に手を差し伸べることができる、良い子だった」

 俺はそれ以上何も言うことができなかった。ただ目の前の男が何を言っているのかを理解してやるのに精一杯で、にもかかわらず絶対に理解したくなかったもんだから。

 こいつは人間なのか?

 そんな思考の外で、親父は俺が持っていた香典こうでんをひったくるように掴んで、にやにやっと笑った。

「へへ、わりぃな」

 信じられないほどの嫌悪と空虚に見舞われて、怒りは湧いてこなかった。
 その日家に帰って、姉貴が吸っていた煙草を吸ってみた。思いっきりむせて、涙が出た。床に落ちた透明を見て、そういや姉貴が死んでから今まで泣いてなかったなと気付いたら、今度は溢れて止まらなくなっちまった。涙と鼻水の洪水の中、煙を吸ってゲホゲホ吐いた。

「こんな苦いもん吸ってたのか。姉貴も母さんも偉いな」

 暗闇に沈んだ部屋の中。返ってくるのはいつの間にか降り出した雨の音。と、アスファルトに張り巡らされた水の上を、車が行き交う音。


 ある朝起きた時、何となく胸が騒がしかった。ただ学校へ行くだけだが、何やら忘れ物をしているような気がした。カバンやら財布やらは持ったのを確認する。だがこれではないという気がしてならない。絶対にこれを忘れてはいけないというような、嫌な予感が。俺は何を探しているのかも分からず、手当たり次第に物を持ってみた。色々持ってみたが、小学生の時に図画工作で使った鞘付きのナイフを持った時、フッと嫌な予感が消えた。今の自分に必要なものは、それのような気がした。
 姉貴が施設に入る時に感じた、嫌な予感。あの時のあの予感は当たっていた。だから試しに持って行ってみるか。という程度のもので、それ以上の何か思惑があったわけではなかった。

 下校の時、スーツを着た男四人組とすれ違った時、何となくこいつらに付いて行ってみた方が良いような気がした。厳密にいうと、何かいいことがあるような気がするというよりは、胸の内にあるモヤモヤを解消できそうな気がした。

 ひとけが無くなったところで、風に乗って奴らの会話が耳に入った。

 ——フォルトレス。
 という言葉が聞こえた。

 ——研究。
 という言葉も。

 それだけで奴らが施設の人間であると決めつけて、話し掛けてみることにした。仮に外れていたとしても、変な学生が話し掛け来たってだけの話だ。問題はない。それに悪い予感はしなかった。その時の俺は、かなりこの直感を頼っていた。実際奴らの顔なんて見たことがないのに、予感に頼って付いてきてみればそれらしい言葉が聞こえてきたんだから。それだけで信じるに値する直感だと思った。

「おっさんらさ。フォルトレスの研究してるの?」

 四人揃っていぶかしげに見る。

「誰だお前は」
渓谷然壽けいこくぜんじゅ渓谷阿弥奈けいこくあみなの弟。おっさんら姉貴を殺したんじゃあねえの?」

 四人とも、後退り、眉間に皺を寄せる。反応を見るに、無関係では無いようだ。

「答えろよ。クソども」
「ガキが。口を慎めよ」

 血の気の多そうな短髪が怒気を孕んだ声で返す。

「お前こそ慎め。殺人野郎」
「殺人じゃねぇ。研究の結果ああなっただけだ」

 その言葉を聞いて、隣の眼鏡の男が慌てた様子で肩を掴む。

「お、おい!」
「いいだろ。こいつ、なんでか知らないけど俺達のこと知ってやがるんだ。今更隠しても仕方ねえよ」
「それはそうだが」

 何もかも単なる直感で適当に言ってみただけだが、当たっていた。俺は今一歩突っ込んでみる。

「殺したかどうかはさておきさ。おっさんらがうちの姉貴の研究をしてたってのは間違いないんだろ?」
「ああ」

 今度はさっき肩を掴んだ眼鏡の男が答えた。

「おっさんらだけ? 他には?」
「施設には他にも研究員が居るが、お前の姉さんの研究に携わっていたのは俺達だけだよ」
「そう。研究の結果ああなっただけって言ってたけど、いったい何があったの? 俺はおっさんらが殺したって聞いて付けてきたんだけどさ」
「付けてきた? 復讐でもするつもりか? ただの子供が」
「大人四人に勝てるわけないだろ。だからせめて姉貴はなんで死んだのか、どんな研究があったのか教えてくれよ」

「……渓谷阿弥奈は運の概念が無くなったフォルトレスだった。運の概念が無いと言うのは確率を無視する存在であるという仮説を立て、0.0001%の確率で死ぬ薬を打った。そしたら一発で死んだ。作用が逆に働くかも知れなかった。100%の確率で死ぬ薬を打っても死ない可能性もあった。悪い方向に転んだ。ただそれだけ。あれは仕方のないことだったのさ」
「仕方なくねえじゃん。打たなければ良かった」
「この研究はな、国からの要請なんだ。打たなければ要請を全うできない。まあ子供には分からんだろうがな」
「国の要請断れよ。そうすりゃ死ななかった」
「結果論だけ言われたら研究なんてできないんだ」
「なんで研究すんの?」
「国の未来のためだ」
「国の未来? おっさんらの食い扶持ぶち稼ぐためだろ?」
「仕事ってのはそういうもんだ」
「人を殺して、立派なこったな」
「好きに言え。それよりもう気は済んだか? 聞きたいことはそれで全てか?」

 眼鏡の男の後ろで、別の男が動いた。が、構わず男は続ける。

「どちらにせよ、俺達のことを知っているようだし、もともとこのまま返すわけにはいかなかったが、今の話も忘れて貰わなければいけないからな。施設に来てもらうぞ」

 背後から嫌な予感がして体を横に反らすと、今まで自分の頭があった位置に何かが振り下ろされていた。さっき眼鏡の男の後ろから移動した男が、殴る為に握りしめた両手だった。

「中学生相手に大人四人が囲んで不意打ちかよ」

 血の気の多い男が指をぽきぽきと鳴らす。

「はっ! 運のいい奴だな! お前の姉ちゃんは運が悪かったがな!」

 運が悪い。そんな言葉で俺の人生を滅茶苦茶にするのを嫌って、姉貴は身も心もボロボロになるまで働いた。今、その思いは踏みにじられた。
 こいつら死んでいい人間だ。俺が今そう決めた。

「お前らが国の為に姉貴を殺したように、俺は俺の為にお前らクズどもを殺すぜ」

 懐からナイフを取り出し、鞘を捨てる。
 攻撃の態勢を取った瞬間、直感が働いた。この位置からこの角度で刺し込めば当たる。そんな予感。
 その通りに首元へ伸びたナイフは防御されることなく皮膚へ到達。そのまま何の抵抗もなくずっぷり奥へと差し込まれた。骨にも当たらず筋肉の邪魔も無く、ストレートに大動脈にまで辿り着いた。グリッと中で回転させるとツプツプと何かが引き千切れる感触が掌に響いた。それをそのまま引き抜く。

「へ?」

 血の気の多い男の間抜けな声が聞こえると同時に、嫌な予感がして避けると、さっきまで俺が居た位置に鮮血が飛び散った。直に触れたわけでもないのに感じる、生暖かい気色の悪い温度。それと共に、充満する鼻を突く鉄の臭い。

 ——ああ。

 やっぱこの直感、信じていい。

 男は白目を剥いて倒れていく。そのまま絶命するのを確認せず、次のターゲットに目を向ける。まだそいつは何が起きたか分かっておらず、簡単に刺し殺すことができた。同じ要領だ。直感通りに刺せば防御もされず、何の抵抗もなく一撃で殺せる。恐らくは相手が無意識の内に作ってしまっている死角を、俺は感じることができるんだ。

 しかしさすがに三人目はそうはいかない眼鏡の男は咄嗟に後退していた。そこへ前進し、ナイフをわざと眼前の避け易い所で振る。仰向けに反るような形で回避するも、……なあおい、それじゃあ体勢が悪すぎるだろ。俺は更に一歩間合いを詰めて、首にナイフを走らせた。

「ぐぎゃっ!」

 死んだかどうかの結果は見るまでも無い。
 四人目の男は既に背中を向けて走り出していた。
 俺は直感通りにナイフを投げ、同時に走り出した。
 男の背中に刺さり、振り返ったところに飛び蹴りをして倒す。背中に刺さっていたナイフがアスファルトに押され、いっそう奥深くに刺し込まれた。

 まだギリギリ息のあるそいつは、俺を血走った目で見ながら言葉を吐く。

「お、まえぇ……! 人の命をゴミみたいに……」

 俺は胸ポケットからCABINキャビンを取り出して、

「お前らの命をゴミみたいに扱ったんじゃあねえよ」

 くわえて火を点け、煙を吐き出した。

「お前らの命はゴミなんだよ」

 俺の言葉に返事が無い。どうやらこと切れたようだ。その男の体から血だまりが広がっていくのを何となく見ていた。アスファルトの上を赤が汚していく。その赤い池に、煙草を投げ捨てた。
 ジュッ。と音を立てて、紫煙しえんが昇った。



 普通の人間のお話をするんなら、きっとこうだ。

『後悔が無いと言えば嘘になる』

 だがどうやら俺は普通の区分からは少々外れるらしい。全く後悔してなかった。
 姉貴を殺した奴らとは言え、初対面の相手を殺した。良心の呵責かしゃくとか言うもんがあってもいいような気もしたが、俺にはどうやらそんなものは、もう残ってないらしい。

 いったい復讐をして誰が救われるのか、とか。
 どんなに辛い目に遭っても殺してはいけない、とか。
 相手がたとえ悪人でも許してやるのが美徳なんだ、とか。

 うるせえよ。

 なら、悪人を許さず殺して復讐を果たした俺も、立派な悪人だろ。
 許せや。
 悪人を許すのが美徳なんだろ? 道徳や宗教をぶら下げて説教したい奴がいるなら、そいつら全員ぶち殺すから、そんな超極悪人の俺を許せや。
 許せないなら、あいつらを許さなかった俺をとがめるんじゃねえよ。

 ……まあそれでも、そんな道理通じねえのは解ってる。法律は俺に味方しない。
 人気のない所だったとはいえ、死体を放置してそのまま家まで帰って来たんだ。事件になって警察が動き出せば、いつか俺も捕まる。だがその前に、やらなきゃいけないことがある。もう少しだけ時間が必要だ。

 あと一人。

 あの親父がのうのうと生きているのが許せない。あいつが姉貴をより苦しめていた。姉貴の優しさに付け込んで、姉貴が働いた金を巻き上げてやがったんだ。
 姉貴は、一度としてそのことを俺に打ち明けてはくれなかった。心配させたくなかったんだろう。あばらが浮き出て皮と骨だけになった姉貴の遺体を思い出す。それだけで腹の底の方に、蒼い炎が揺らめき始めるのを感じた。

 あいつを殺したら、もういい。どうでもいい。
 あいつが今どこに居るかは知らねえ。だが、直感を頼りに探し出せば、見つけられる気がした。

 玄関のドアノブを回して外に出ると、二人の男が立っていた。

渓谷然壽けいこくぜんじゅさんですね」

 もう来たのかよ。日本の警察は優秀だな。こんな時だけ。

「ああ」
「今日はお願いがあって来ました」

 お願い、という肩透かしの言葉を放ったのは、黒髪ボブヘアの男だった。
 なんだ。警察じゃあねえのか。だったらあの施設の奴らか。

「いったいお前ら何者なんだ? 俺の名前を知ってるってことは、政府かなんかか?」

 薄い笑いを浮かべていたボブヘアの、細いアーモンド形の瞳がゆがむ。

「あんなものと一緒にしないでください」

 そう言って男はスーツの内ポケットから名刺を取り出した。

「テンポラリースタッフエージェンシー緑風りょくふう……?」
「はい。人材派遣会社ですね。社名は長いのでTSARティーエスエーアールでツァルと呼んでいます。そして僕が総合職をしております、枕真想まくらまそうと言います」

 想と名乗ったそいつは、どう考えても俺とそんなに歳は変わらなさそうだった。それが総合職ってなんか凄そうな役職なのは、胡散うさん臭いな。

 隣でずっと立っている男に目を向けると、にっこりとほほ笑んだ。爺さんだった。初見で気付かなかったのは、あまりに姿勢が良かったから。だが笑うと深く刻まれた皺が際立って、年齢を感じさせた。

「ですので、政府では有りません。それから、ご心配されている警察は来ませんよ」
「心配って、なんか知ってるのか?」
「知っているも何も、あなたが殺した四人の死体の処理をしたのは我々……というか隣の良煙寺りょうえんじ理三郎りざぶろうさんです」

 死体の処理と聞いて、戦慄する。政府や警察なんかよりやべえ奴らが来たと思った。だが不思議と嫌な予感はしなかった。

「その爺さんはヤクザか殺しのプロ、とか?」
「いいえ。こちらの方は葬儀屋です。とても優秀な」

 想は爺さんに笑いかけた。

 葬儀屋に優秀とかあるのか。とか思ったが、警察に追われないように証拠隠滅するレベルで葬儀したんなら、殺した側からすれば優秀かと結論付けた。

「先ほど申しました僕からのお願いなのですが、ツァルに入社して僕の部下になって頂きたいのです」
「部下になって、俺は何をさせられるんだ?」
「僕のワガママを聞いて頂きたい」
「ワガママ?」
「ええ。一般的な人には頼めないような、例えばフォルトレス研究施設の人間四人殺してきてくれ、みたいな」
「はっ。そんでお前は俺に何をしてくれるんだ? 給料払ってそれでしまいか?」
「給料はもちろんお支払いしますよ。でもそれだけじゃあなく、渓谷さんのワガママも聞きます。殺したい人が居るんでしょう?」

 思わず言葉に詰まる。ここまで適格に言い当てられると、こいつが仮に俺の味方だとしても気味が悪い。

「なんでそんなに俺のことに詳しいんだ?」
「我々ツァルに在籍しているメンバーで、“嘘無うそなし”というフォルトレスが居ます。彼は、嘘という欠落を無くし、嘘を言えなくなっています」
「不便だな」
「ええ、生活するうえでは。ただ、彼が解り得ようもない質問に対しても嘘を言えませんので、知り得ない正解を導き出すことができます。例えば、渓谷阿弥奈あみなはフォルトレスかと聞けば、“嘘無し”は彼女の顔を見たことがなくても真実を話すことができる。しかし彼女がそうであることを見抜いたのは、こちらの“嘘無し”ではなく政府お抱えの“偽無にせなし”でした。彼は真実しか見えない眼を持ち、フォルトレスかどうかを視認できる能力を持っています。そして政府が動き出した後で、我々はようやくそれを知ったのです。何もかも遅かった。だが、我々は同時に貴方がオッドシーカーであることを知った。これはまだ政府も勘付いていません」
「オッドシーカーってのは?」
「人がフォルトレスになる際に発生するゆがみたいなものに当てられた存在で、往々にして人間では実現不可能な能力を持ちます。平たく言えば、超能力者ですね。で、その超能力のことをフラグメントと呼んでいます」
「俺にはフラグメントってのがあるわけか」
「ええ。渓谷さんは既にそのフラグメントを使いこなされています」

 それを聞いて驚いた表情を見せた俺に対して、落ち着いた笑顔のままの想。

「でなければ、武の心得も無い貴方が、大人四人を相手取って無傷で皆殺しにするなんてできません。全く迷いのない軌道で刺していましたから、相手の急所が解る能力か、或いはどうやったら敵を殺せるか解る能力、はたまた未来予知と言ったところですかね」
「見ていたのか」
「貴方がオッドシーカーだと解ってから、ずっと追いかけていましたよ」

 見ていたにしても、たったあれだけで、ここまでわかるものなのか?

「殺せるかどうかとか、そんな具体的なものじゃあねえよ。ただちょっと良い予感と悪い予感を察知できるだけだ。だからナイフの軌道も、良い予感がする方に向かって刺したり振ったりしただけだ」

 想は笑顔のまま細かった目を見開いた。なんか怖えな。

「想像以上だ。そんなに汎用性の高いフラグメントなら、戦闘以外でも役に立ちそうですね。今後の活躍が楽しみだ」

 満足げにうんうんと頷いているボブヘアに胡乱気うろんげな眼差しを向けた。

「おい」
「はい?」
「まだ部下になるって決めた訳じゃあねえぞ」
「そうでしたね。でもあなたはきっとなる。いやならざるを得ない。お父さんを殺したいのでしょう? 香典こうでんを持ち去っていくような親ですからね。そう思うのは仕方ない。それにその香典を何に使ったと思います?」
「知らねえよ。てーか、俺だけじゃなくて親父までつけてたのか」
「はい、そうです。それでその香典ですが、酒と女に使ったあと、残りの金は全部ギャンブルでスッていましたよ」

 口を半開きにしている俺のことなど気にせず、想は続ける。

「いやはや、あんなのは人間じゃあない。でも法律上人間だ。殺せばあなたが罰せられる」
「それでもいいさ。どうせそれ以上することもねえ」
「あなたは悪くないのに?」
「は?」

 思わず聞き返してしまった。
 普通、殺人が悪いことじゃあねえって言わねえから。まして身内だ。義理人情に厚い人間ならこう言う、『そうは言っても家族。話せば解る』ってな。だがこいつはそうじゃあねえって言う。『酷い奴なら父親でも殺したって悪くはない』って。俺だって殺した奴らに対してすまないとは1ミリも思ってねえよ。けどなんだかんだ言って、自分が法律に反した人間だっていう負い目みたいなものは感じている。こいつはそれすら感じなくて良いって言ってるんだ。イカレてやがるぜ。

「渓谷さん。あなたは悪くないのに、どうして捕まることを受け入れるのですか? もちろん、あなたが不義の悪事を働くのなら、僕とて警察に行くように言います。でもやろうとしていることは本当の悪を叩くことだ。つまり正義を遂行しようとしているだけだ。それを警察ができない、国ができないという。なら自身の手でやらざるを得ない。そうやって警察の方々が御丁寧に追い詰めてくださったせいで、青年はこれから人を殺すことになるというのに、最後はその青年を逮捕して手柄を立てて終わりだ」

 表情は笑顔のまままるで変わらないし、声色も特に変調はない。だが次の一言は違った。

「ふざけないで欲しい」

 耳の奥がビリつくような低音が、優し気な口調に混ざって放たれた。俺に、というより世界全体に対しての嫌悪感を内に秘めた声のように思えた。

「不義の悪を討つのは、いつだって正義の悪です。善は悪を討たない。救うんです。だから僕は奴ら善に悪を救わせない。不義に打ちひしがれて立ち上がることもできなくなった人々がもう一度明日を見るには、不義の悪を討つこと以外に方法がないのです」

 信念を宿した意志の強い眼差しが、俺を真正面から捉えた。そうか。こいつは俺に似ているのかも知れないな。だから嫌な予感がしなかった。

「貴方は存分に不義を討てばいい。僕は情報で、理三郎さんは後処理で、あなたの正義をバックアップします」

 想はいつの間にか用意していたアタッシェケースを開いた。
 中には拳銃とマガジンが入っている。

「渓谷さん、僕の部下になってくれますね」

 俺は頭の後ろで手を組んで、大袈裟にため息を吐いて見せた。

「部下になる前に俺のワガママを聞け」
「なんでしょう」
「ゼンって呼べ。苗字だと、クソ親父と同じだ」
「ではゼンさん、よろしくお願いします」

 想はそう言って満足そうに眼を細めた。



 一体全体どうやって情報を仕入れたのか、そうは親父の電話番号を知っていた。

「うちは人材派遣会社ですよ? 一度でも登録された名前と電話番号などの個人情報を3年間は保存しておく義務があるんです」
「その個人情報を俺に教えたら、職権乱用にならねえのか」
「なりますよ。ですから善良なる一般社員の方のものは絶対に教えません」

 俺は、番号は親戚に教えてもらったなどと適当なことを言って、親父を呼び出した。最初は来るのを拒んでいたが、遺産相続の件で金を渡せると言うとあっさり来ることになった。

 深夜。人里離れた、もう誰も住んでない民家の前で待っていた。

 近づいて来た父親は、俺の持っていたアタッシェケースを見て、眼を輝かせた。視線を下に誘導して、油断しきったその首筋に、拳銃のグリップで思い切り一撃を見舞った。
 気絶した親父を家の庭のガレージに引きずり込み、シャッターをして明かりを点けた。明かりとは言っても、誰も住んでいない家だ。電気は通っていない。だからアウトドア用のランプを使った。

 ガレージの壁際にある柱の両方から縄を引っ張り、奴の手に括り付けた。両腕を広げた状態でうつ伏せの形。簡単には身動きを取れないはずだ。
 しばらくするとうめき声が聞こえた。

「目が覚めたか」
「う、ここは。いったい何が……? ん? う、動けねぇ。なんだこれは! 助けてくれ、然壽ぜんじゅ!」

 俺は名前を呼ばれたことに腹が立ち、思い切り横腹を蹴った。
 ここなら俺の足が痛まず、こいつの内臓だけを傷付けられるという直感があった。まあ、爪先に鉄板が入った安全靴だから、こっちの足が傷付くってことはそうそう無いが。

「うぐぅう! な、なにをするんだ!」

 反抗する態度にも腹が立つ。肩を思い切り踏む。

「あ、あぎぃぃいい! ああ! す、すまん! よくわからんが、怒っているんだな? 謝るから、許してくれ! たたた、た、すけてくれ!」

 俺は更に体重を掛けながら唾を吐いた。

「な、なんてことするんだ! 親に向かって! あ、ぐ! 痛い!」
「親は子供から金なんざらねえんだよ」

 ミシミシと肩から音が鳴る。このまま踏み続ければ肩の骨が折れる、そんな予感がしている。

「痛い痛い痛い痛い!! 解った! すまなかった! 金は返す!」
「その金があったら姉貴が生き返るか?」
「いや、それは」
「お前が追い詰めたんだぞ。姉貴を。俺の学費を稼いでやるって一生懸命働いて、そんな優しい姉貴に付け込みやがって」
「すまなかった!」

 謝ったことにさえもう、腹が立って仕方がなかった。
 アタッシェケースから取り出したコルトガバメントの銃口を向ける。

「へ?」

「死にたいか?」
「ししししし、死にたくない!」

 ——パンッ!

 乾いた音共に銃口から放たれた弾丸は、男の人差し指を吹き飛ばしていた。手からは白い骨が見えている。血は、まだ出てない。

「あっつうぅうう! ああああ! いつうぅあああ!」
「お望みどおりにしたぞ」
「う、撃たないで、くれ……!」

 手の今まで指があった部分を思い切り踏みつけた。
「ぎゃあああ! ふむなあああ!」

 汚い声を叫ぶために開かれた口に、思い切りトゥーキックを刺し込む。鉄板入りの爪先だ。
 ミシミシミシミシと、何本も歯が折れる音がした。

「ため口をやめろ。ゴミが」

 もう一度、二度、三度、目の前のゴミの口に足を突っ込む。白や銀の欠片が、その頭の周りに転がっていたが、ゴミが散らかった程度にしか思えなかった。

「ほうひまひぇん、はふへへえええ」
「何言ってるかわかんねえよ」

 ——パンパンパンパンパンッ!

 銃声がガレージの中にけたたましく響く。

 無事だった方の手の指を全部撃ち落とした。
 マガジンリリースボタンを押して、空になったマガジンを引き抜き、新たな弾丸を装填する。

「聞くが、お前は俺の親か?」

 こくこくと頷く。

 ——パンッ!

 残り4本のうち1本が吹き飛ぶ。

「あああああ!」

 血を吐き散らしながら叫ぶ。きたねえな。

「もう一度聞く、間違えるな? お前は俺の親なのか?」

 今度は首をぶんぶんと横に振る。

「そうか。良かったぜ」

 俺は懐からCABINキャビンを取り出し、一本咥えて火を点けた。

「そう言えば、お前は煙草吸わないのか?」
「ふえはいんれふ。はいはよわふへ」
「何言ってんのかわかんねえけど、吸えないのか?」

 こくこくと首を縦に振る。

「案外吸ってみるといいもんだぜ。どうだ、吸ってみるか?」

 そう言って火の点いたままの煙草の先端を近付ける。そいつは首を横に振る。

「遠慮するな、よ」

 ——ジュッ。

 煙草の火を歯茎にグリッと押し付ける。

「んんんんん!」

 歯茎は一瞬だけ水ぶくれが出来上がり、すぐに潰れて液体が血と共にダラダラと垂れた。
 すると間もなくして鼻を突くアンモニア臭がした。どうやら今ので漏らしたらしい。

 ——パンッ!

「んああああああああああああああああああ!」

 股間から漏れた尿の後を追うように、股間から流れ出た赤い液体が滲む。

「姉貴の葬式の時に金を貸せと言ってきたお前。高校生の姉貴から金を巻き上げていくお前。果たして人間なんだろうかと、疑問だったんだ。取り敢えず親でないことは解ったが、人間かどうかの区別ははっきりしてねえ。俺は、お前は人間じゃあないんじゃあないかと思うが、お前は人間なのか?」

 目の前の男は考えているようだ。身じろぎ一つ取らない。その間に煙草を一本咥え、火を点ける。

「間違えるなよ? まだ3本分チャンスはあるが、なるべく多く残したいだろう? お前は人間か?」

 ゆっくりと首を横に振る。

「そうか。謎が解けて良かったぜ」

 俺はアタッシェケースからもう一丁のコルトガバメントを取り出す。

「姉貴は俺を助けるために、フォルトレスとして自分を売って死んだ。母さんはいずれ虐待されて死ぬ子供を助けるために死んだ。まさか親父だけが自身のための生を全うして死ねるなんて、俺は思いたく無くてな。この家族の中で最も悪い死に方をすれば、姉貴や母さんは親父よりマシだったと思えるだろう? これで姉貴や母さんが報われるとか、さすがにそんなことは思ってねえよ。ただ、俺が多少スッキリするってレベルの話だ。その程度の話の為に、お前には死んで欲しかった。それも人間としての尊厳を全て失って……つまり人として死ぬんじゃあなく、ゴミとして処理されて欲しかった」

 二つの銃口を向ける。

「ゴミなら、喋ったり動いたりするのはおかしいからな。正しい姿に戻してやるよ」

 それから無心で、トリガーを引き続けた。途中、マガジンを何度も交換して、全てを撃ち尽くすまで、ゴミに向かって弾丸を放った。途中からもう、呻き声も聞こえなくなっていた。

 ホールドオープンしたガバメントのスライドストップを解除すると、シャッ。という乾いた音がガレージに響き、そのあとに静寂を作った。根元まで燃え切ってフィルターだけになった煙草をゴミに向かって吐き捨てた。

 ほどなくして、シャッターの開く音がした。風が入ってくると、むせ返るほどの死臭が逃げ出すように外へと這い出して行った。
 その死臭とは逆に、足音が近付いてくる。

「もう、終わりましたか?」

 爺さんだ。葬儀屋の。

「ああ」

 理三郎爺りざぶろうじいさんは、蹲踞そんきょの姿勢でゴミに向かって手を合わせた。

「手を合わせる必要はねえよ。それはゴミだ」

 爺さんは振り返るとにっこり笑った。

「それはゼンさんの価値観のお話ですから。私は私の価値観の中で、一つ一つケリを付けて行きたいだけです。ひとがりでもなんでもね」

 爺さんがする葬儀ってのが気になって、俺はそのまま見ていた。

「なあ爺さん。それは俺の親父でもなければ人間でもなかったらしい。だとしたら俺は一体どうやって、何の為に生まれてきたんだろうな」
「さあ」
「俺はそもそも生きているんだろうか? それこそ俺がゴミだったりしてな」

 爺さんは自嘲に笑んだ俺の視線を掬うように、下から覗き込んできた。

「ゼンさん。私の葬儀、見ておいてください」
「そのつもりだった」
「そうですか。それは良かった。これから長い付き合いになりそうですからね。少々不思議なことが起こりますが、一度で慣れてください」

 爺さんがそう言いながら、ゴミの対岸に渡り俺の方を向いた。良く見えるようにということだろう。爺さんはまた腰を落として、左の掌を下に向けた。すると爺さんの両目の黒目の部分の左半分が赤色に変色した。よく見るとその赤は揺らめいていて、まるで赤い煙が瞳の半分に立ち込めているようだった。俺から見て左だから、爺さんの瞳の右半分が赤い煙に包まれているってことになる。その状態で、ゴミの周りの地面を掌でなぞっていく。すると、そこに灰が出現した。地面に付いた血も、掌が通ったあとには灰だけが残る。そしてゴミに触れた途端、全てが灰になった。あとには血もゴミも何もかもない。

「私のこの能力はね。生きていないものを灰にするんです。血も肉も骨も。温度も無く。ですからそうですね、ゼンさんが仰る通り、ゴミも灰にできます」

 そう言ってゆっくりと立ち上がると爺さんは、俺の肩をポンポンと叩いた。

「こうして貴方に触れても、灰にはならないでしょう? 生きているってことです。ゴミじゃあないってことです。それでは貴方はどうやって、何の為に生まれたのか。それは、これからの人生の中で考えていけばいいでしょう。なあに、焦る必要はありませんよ。貴方なら多分そう遠くない未来で辿り着けますから」

 そう言ってまた、爺さんは深い皺を作って、にっこりとほほ笑んだ。



#創作大賞2023


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?