詩一
跳浦莉々を追って、今は三人ともタクシーの中だ。 想はタブレットを操作しながら、ツァルの連中とやり取りをして、ドライバーに行く先を指示している。いったいどうやってカサブランカの奴らの行く先を調べているのかは分からないが、指示に淀みがない。ずっと北西に進路を取っている。その先に確実にいると言うことなんだろう。 爺さんは柔和な顔を俺に向け、穏やかな口調で話し掛けてきた。想とドライバーとの会話の邪魔にならない程度に。 「今、うちの孫が中学生でしてね。色々と将来のことを考え
——13歳の夏。 母さんは俺が中一の時に、死んだ。 母さんと姉貴と俺の三人で海に行った時のことだった。母さんは海で溺れていた他人のガキを助けに入って、自分も溺れた。そりゃそうだ。母さん、カナヅチだったからな。溺れるって、解っていたはずだ。でも入った。それで当の本人、つまりそのガキの親はその間どうしていたかっていうと、浜辺で慌てふためいて「助けてください!」と叫んでいただけだった。そいつも泳げなかったらしい。 俺と姉貴が海の家から帰って来て、喚いているそいつを見て、
ふと手のひらサイズの黒い画面に目を向けた。何となく嫌な予感がしたからだ。 数秒後に画面が切り替わり、枕真想という名前が表示された。キッチンに移動しながら、スワイプして電話に出る。 「どうせ仕事だろ」 相手の声を聞く前にズバリ言ってやると、想は受話器の向こうで笑った。 「相変わらず勘が鋭いですねえ」 「白々しいぜ……。で、なんだ」 換気扇のスイッチを入れ、煙草を取り出し、咥えて火を点ける。仕事の話は煙草でも吸ってないとやってられない。 「フォルトレスが出現しま
然壽は想から、フォルトレスの少女がバスを焼いたという情報を受けて探すことになる。フォルトレスとは“欠落無くし”になにかをなくされ、人並外れた力を手にした者のことだ。然壽が属する組織TSARは、フォルトレスを探し出し、状況に応じて匿ったり殺したりしている。今回の対象の莉々はどれだけ痛めつけられても傷が付かない“傷無し”と言うフォルトレスだった。途中Casablancaの透駕に邪魔をされるも目的の場所へ辿り着く。莉々を殺すよう言われたが自分の家で匿うことにした。 #創作大賞20
マンションの一室。壁の色と同じ白色のLEDが煌々と輝く清潔感のあるキッチンに、編砂澄亜は仕事帰りのままの、上下キャメルのスカートスーツを着て立っていた。 編砂はおもむろに手を合わせて目を瞑り、呟いた。祈り、というよりは世間話のそれに似た口上で。 「文時さん、今日も事件が起きました」 名探偵が死に、この世界では事件が起こらなくなったのか。 否。霊魂と化した文時の周りでは、次々と事件が起きていった。 まず手始めに、彼の葬式の最中にそれは起きた。 霊魂だった彼は、警
事件が解決へと向かう間に、第一発見者であった編砂を重要参考人として警察署へ招いた。勿論目的は彼女の無実を証明することだった。重要参考人と言うのは、あくまでもていだ。 警部は編砂から交通系ICカードと携帯端末を受け取り、専門部署に預けた。彼女の言っていることの整合性が取れれば、晴れて容疑者から外れる。 そんな調書に書く為の、形だけの取り調べを小一時間していると、他の警官から容疑者が捕まったとの情報が入った。 「良かった。もっともあなたがシロであることは明確でしたが。し
救急車と警察車両の到着はほぼ同時だった。もう既に死後何時間も経っており、蘇生は不可能であることを告げられ、編砂は再び頽れた。 文時は犯人を知っている。また、このアパートの他の部屋に別の犠牲者が居ることも。 運が良いことにこの現場に来たのは文時と数多くの事件を解いた美汐良警部である。何とかして彼に伝えれば、彼はこの謎を解いてくれると文時は思った。しかしながら伝える手段が霊魂である彼には無い。 美汐良は文時の遺体の前で手を合わせて黙祷を捧げていた。目を瞑ってから数分が経
——ガチャッ。 扉を開けた瞬間、編砂はビクッと身を引きつらせた。 「ふ、みとき、さん……?」 そう、声に出すのがやっとだった。 文時は仰向けに倒れ、胸からおびただしい量の血を流して死んでいた。服と畳に染み込んだ血はもう乾いており、死後数時間以上経っていることが明らかであった。 編砂は乱れる呼吸を落ち着かせるより、緊急事態を知らせることを優先した。彼女がまず呼んだのは救急車だ。そのあとで警察にも電話をかける。 彼女はこんな時ですら靴を脱いで部屋に入った。
夕暮れ。蜩の声を聞かなくても、もう違和感を覚えなくなった。 文時は仰向けに寝そべりながら足を組んで推理小説を読み耽っていた。いつも日が暮れる前に編砂には帰ってもらう事にしている。告白をしてからこの方、編砂のアパートの滞在時間が増していた。単純にこの文時という男に対しての抵抗がなくなったということもあるが、彼女なりの恋人としての在り方を考えてのことのようにも思えた。対して文時は、複雑な気持ちを抱えていた。ずっと自分の世話をしてくれる彼女に対して、好意を抱かないわけはない。し
「編砂さん、僕と恋仲になろう」 編砂が部屋に入ってくるや否や、文時はそんな言葉を口にしていた。 開かれたドアから、アスファルトの熱を吸った風が入り込み、彼女のストレートに降ろされた黒髪を揺らした。青芒の匂いとやわらかな石鹸の匂いが混ざって、六畳一間は夏に包まれる。 彼女は良いとも悪いとも言わず、呆気に取られ、ただ一点を見つめ、それからコンビニ袋をズドンと落とした。ぐちゃっと言う艶めかしい擬音はプリンのものだろう。 それから勝手にドアが閉まり始め、バタンという音に押さ
朝から文時は機嫌が良かった。鼻歌を唄うなど、久し振りのことである。インスタントではないコーヒーを淹れるのも数か月ぶりだ。彼は台所に立ち、やかんの注ぎ口を「の」の字を描くように回し、コーヒーの粉にお湯を注いでいる。ぽたぽたと丁寧に。お湯を含んだ粉が膨らみ、呼吸をするように泡立つ。立ち上る湯気と香りに鼻腔をくすぐられ、遂には鼻歌から歌へと転じていた。 「ふんふ~ん♪ そーらーにーうーたーえばーぁ♬」 ――ガチャッ。 女性パートに差し掛かったところで不意に扉が開いた。
編砂が帰ってから、文時は暇潰しにスマフォのゲームに興じていた。しかしゲームは何もかも似たり寄ったりでつまらなかった。インターネットでゴシップ記事を見た所で胸が高鳴る事はない。彼が心躍るのはいつも事件の解明を行っている時だった。彼が言う通り、それがたとえ浮気調査であろうとも、真相を究明することに変わりはないのだから。 彼はあらゆるものに飽きていた。とどのつまり、暇だった。 寝そべって天井を仰ぎ、眼の端にスマフォを置き、見るでも見ないでもないようにぼけっとしながら画面を親指
——ピーンポーン。 インターホンが鳴って数秒後、若い女性の声がドアの向こうから聞こえた。 「起戸見さーん。居ますかー? 居ますよねー? 居ないと困るので返事してくださーい」 文時は丁寧に発音されるソプラノを聞いて目を開けた。 薄手の掛け布団から右半身を出して、仰向けになっていた体を反転。畳を這いずるように玄関へ向かう。文時がドアノブに辿り着くより先に扉が開いた。 ——ガチャッ。 麗らかな風が、文時の額に吹き付け、髪を後ろに撫で付ける。同時に夜の間に冷え切
ドアを開けた瞬間、起戸見文時は悪寒を感じ、その場で硬直した。 男と目が合ったからだ。 それはただの男ではなかった。ただの男であれば文時がこの時、ドアを開けた瞬間に、一歩後退るなどと言う行動にはならなかったはずだ。 男は夜にも拘わらずティアドロップのサングラスをして、顎から頬骨までを覆い隠す大きなマスクを耳に掛けていた。頭髪もニット帽で隠されている為、どこの誰だかを見抜くことはできない。それでも目の前の人物を男と断定できたのは、メンズのビジネススーツを着込み革靴を履い
あらすじ 名探偵が外に出ると事件が起きるという理由で軟禁された起戸見文時。そこへ、編砂澄亜は食料を届けるために毎日通っていた。軟禁されてからは、事件は一度も起きていない。 文時は編砂に交際を申し込んだ。名探偵の恋人は死なないからという理論で。 ある晩、文時は男に殺される。霊魂は成仏できず、その場にとどまってしまった。 文時は編砂の誤解を解くために、警察の体に憑依する。 疑いが晴れたあと、文時は憑依した状態で思いを告げた。自分のことは忘れて自分の人生を送るようにと。編
細巻太瑠はリバウンドしやすい体質だった。ジムでダイエットのためにボクササイズをしていると、本格的なボクシングに誘われた。興味があった太瑠はボクシングを始める。技術面はパッとしなかったが、リバウンドしやすい体質を活かし、減量後のリカバリーで相手との体重に差をつけて順調に勝ち星を積んでいった。しかし突然、減量とリカバリーに規制が入るようにルールが変更され、勝てなくなってしまう。太瑠の真似をして無理なダイエットや暴飲暴食をする子供が増えたため、それを防止することを目的にした処置だっ