『引きこもり探偵』第二話 引き篭って、春
——ピーンポーン。
インターホンが鳴って数秒後、若い女性の声がドアの向こうから聞こえた。
「起戸見さーん。居ますかー? 居ますよねー? 居ないと困るので返事してくださーい」
文時は丁寧に発音されるソプラノを聞いて目を開けた。
薄手の掛け布団から右半身を出して、仰向けになっていた体を反転。畳を這いずるように玄関へ向かう。文時がドアノブに辿り着くより先に扉が開いた。
——ガチャッ。
麗らかな風が、文時の額に吹き付け、髪を後ろに撫で付ける。同時に夜の間に冷え切っていた冬の部屋に、春が訪れた。
「あっ」
呻き声の様な言葉を発した彼の視線の先には、長く艶のある黒髪を下した女性が立っていた。
「もう! 不用心じゃあないですか!」
四つん這いになっている文時を見下ろしながら、子供を叱るように言う。
彼女は解錠するでもなく開いてしまったドアについて怒っているようだった。
文時は膝立ちになってから力なく腰を下ろし、片手で無造作に伸び散らかした頭髪を掻いた。細長く節くれ立った指が、クルクルのくせ毛に絡まる。
「ああ、いやあ。申し訳ないねえ。はは……」
文時《ふみとき》は虚ろに揺れるダークブラウンの目を擦って短く息を吐くように笑った。
「これで何回目ですか」
「さあねえ。しかし開いているって予測できたなら、勝手に入ってくればいいのに」
「そう言う訳にはいきませんよ。住居不法侵入の罪で捕まりたくありませんから」
「大袈裟だなあ。訴えないよ」
「問題はそこではありません。一応、義務なので言っておきますが、ちゃんと鍵をかけて寝てくださいね」
しかし文時は曖昧にヘラヘラと笑顔を張り付かせているだけで、一向に首肯をする兆しはない。
「起戸見さん」
腰を曲げ、座ったままの文時に、ずいっと顔を寄せてくる。細長いスクエアタイプの眼鏡の奥から、ブラウンの瞳が覗く。その目尻がキッと吊り上がった。元々垂れ目なので鋭い印象にはならないが、怒っていると言う事だけは十分に伝わった。文時は胸を反らせる形で身を引いて、コクコクと頷いた。
首肯を強いたものの、それでもまだ信用できていないのか、胡乱気な表情を浮かべ、短く息を吐いた。その動きに合わせるようにして、彼女の大きな胸が揺れる。結局それ以上は何も言わず、元の姿勢に戻った彼女は片足ずつ上げて、ヒールの低いパンプスと踵の間に指を差し込んで順に靴を脱いだ。ベージュのストッキングに包まれた足が、トンと畳の上に降りる。
文時は近くにあった座布団を掌で指した。
「編砂さん、どうぞ」
「どうも」
編砂と呼ばれた彼女は、短く答え、恭しい所作で膝を折る。濃紺のタイトスカートは太腿を覆い隠している為、不用意な妖艶さなどはない。そのうえ、同色のブレザーと真っ白で皺の無いワイシャツはとても上品で、彼女の品性を表しているようであった。そんな清楚さとは相反するコンビニのレジ袋をガサッと床に置く。
「言われた通りのものです」
「ありがとうございます」
文時は頭を下げて袋を受け取る。
「でも、よろしいんですか?」
編砂の問いかけの意味が分からず、文時は首を傾げて視線だけを返し、手は袋の中の商品を掴んでいた。
「いえ。……起戸見さんが好きなものを言って頂ければ、何でも買ってきますよ? お気遣いがあるのではないかと思いまして」
袋を破り、中から出てきたフランクフルトにケチャップとマスタードを掛ける。
「気遣いなどはしていないよ。夕食と明日の朝のパンも買ってきてくれているし、大変満足しているよ」
そう言って一口頬張る。
「そうですか」
彼女は短く言って俯いた。額に暖簾が掛かる。
フランクフルトの欠片を飲み下し、前髪で見ることが叶わない瞳に向かい、やや下から覗き込むように首を傾げる。
「なんか食べる?」
「要りません。起戸見さんの貴重な食糧ですから」
「そう」
文時はそのあとも袋から取り出しては次々に胃に詰めていった。ご飯を食べると言うよりは養分を摂取するように、淡々と続いた。
「起戸見さんのこの状況は、考えようによっては囚人の様ですが、考えようによっては特権階級の……貴族の様でもあります。ですから、何でも言ってくださればいいんです。差し入れの範囲を脱しなければ、ですけれど」
「すると編砂さんは差し詰め召使いと言うことになるねえ」
「そうです」
手を突いて前に出る彼女から視線を逸らし、文時は斜め上の天井を見つめ、顎を指で撫でた。無精ひげがシャリシャリと音を立てる。
「でも僕は別に自分を囚人だとも貴族だとも思ってないよ。というか、僕の事を囚人だとかそんな風に思っていたのかい?」
「あ、いえ!」
編砂は一度両手を胸の前まで上げて、それから力なく下ろす。
「……否定はできませんね。ここまで自由を奪われている人を、私は囚人の他に知りませんから」
重たい溜め息を吐く彼女を励ますかのように、文時はにっこりと笑った。
「どれだけ自由を奪われようとも、僕は探偵だ。それに変わりはないよ。まあ事件が無ければ出る幕も無いけれど。本当は浮気調査とか迷子犬の探索とかでも構わないんだけどねえ。ただ僕は、真相に辿り着きたいだけだから」
真相に辿り着きたい。彼のその純粋な探偵としての精神は、軟禁状態になってからも変わっていない。
「それで、実際どうなの? 僕がこの部屋から一歩も外に出なくなって、事件は減ったの?」
「ええ。残念ですが」
「残念?」
「これで日本政府の馬鹿馬鹿しい考察が正しかった事の裏付けが取れたことになってしまいましたから。名探偵が出歩くから殺人事件が起きる。なら、閉じ込めておけば殺人事件は起きない。などと言う冗談のような机上の空論が。勿論、一時的に事件が起こっていない時期と、起戸見さんの軟禁の期間がたまたま被っただけとも言えますけれど、そんなこと政府には関係ないでしょうから。この空論の正しさを誇らしげに触れ回るでしょうね。とは言え、マスコミにこのアパートが特定されてしまったら軟禁も難しくなるので、公にはしないでしょうけれど」
「いずれにせよ、事件がないことに越したことはないんだし、残念がることじゃあないよ」
「そ、それは確かにそうですけれど。でも、起戸見さんだってこんな生活ずっと続けるなんて嫌でしょう?」
「嫌だねえ。でもこんなにきれいな人が毎日来てくれるなら」
「茶化さないでください」
「茶化しているつもりはないんだけど」
ジト目を向ける編砂を笑顔で受け止め、ゴホンと軽く咳払いをして続ける。
「仕方ないよ。人の命には代えられないからねえ。僕一人が不自由になることで、人が死なない世の中になるなら、その方が良いだろう?」
「でも……、政府側の私が言うのもおかしいですけれど、何の罪もない人間を死ぬまでずっと閉じ込めておくなんて、おかしいですよ」
「名探偵の宿命だと思うことにするさ。それにさ、今まで数々の難事件を解決してきていい気になっていたけれど、その実僕が関わらなければ事件が起きなかったと言うことを知ったら、自分の傲慢さに呆れて、お灸を据えたくなるものだよ」
編砂は再度俯き、肩を震わせた。
「ああでも、勿論、外には出たいよ。だから、錠は掛けないでおくね」
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