『オウルシティと“傷無し”』後編
跳浦莉々を追って、今は三人ともタクシーの中だ。
想はタブレットを操作しながら、ツァルの連中とやり取りをして、ドライバーに行く先を指示している。いったいどうやってカサブランカの奴らの行く先を調べているのかは分からないが、指示に淀みがない。ずっと北西に進路を取っている。その先に確実にいると言うことなんだろう。
爺さんは柔和な顔を俺に向け、穏やかな口調で話し掛けてきた。想とドライバーとの会話の邪魔にならない程度に。
「今、うちの孫が中学生でしてね。色々と将来のことを考える年頃なので、私の葬儀屋稼業のことを教えたんです」
「へえ。爺さん前は、孫にはやらせたくないって言ってたのにな」
「そうです。孫にはこういう日陰の仕事をやって欲しくないという考えは変わりません。しかし能力があることはツァルの皆様も知っていますし、私が居なくなれば代役は他に居ませんから、避けては通れないものかも知れないとも思うのですよ。もちろん孫が嫌がるのをツァルの皆様が無理矢理やらせるというのなら、命懸けでツァルの人間を灰に変えますが」
この爺さんに限ってはやりかねないな。
「もしも稼業を継がせることになれば、ゼンさんと仕事をすることになりますので、その時はよろしくお願いします」
俺は首肯してから、疑問を投げた。
「そいつはもう、良煙寺流を体得したのか?」
「基礎の構えと心得と受けの方は。ただ、裏の心得と攻めの方は本人に人を傷付けてでも守りたいと言う考えが芽生えない限り、教えられません」
「爺さんもう歳だろ。そんな悠長なことしていて、教えきれなかったらどうする? 確か、口伝だったよな?」
「ええ。ですが、弟子は他にも居ますので、もしもの時は彼女に頼みます。孫とも面識はありますので」
「彼女? へえ、女か」
「ええ。とても強いですよ。昔の記憶で曖昧ですが、一週間も経たないうちに全てを体得してしまいましたから。生まれる家庭が違えば、それこそスポーツで一流になれていたかも知れませんねえ」
「そりゃ残念だ」
「でも彼女、それを不運だとは思っていないようでした。彼女は守りたいものを守る力を手に入れる為に、私のところに来たわけですから、命懸けで守りたいと思えるものが彼女にはあったということです。それは一つの幸せの形なのかも知れません」
「そうか。一度会って……いや、会わない方が良いな」
「どうして?」
「俺が強い奴と会う時は、だいたい敵対している時だからな。お互い接触しない方がいいんだろうぜ」
「はっはっは」
爺さんが爽快に笑うと、車が止まり、扉が開いた。
「さて、ここからはお二人の出番ですよ」
想がクレジットカードをドライバーに渡しながら微笑みを浮かべた。
「想。どうやってこの場所を突き止めたんだ? 間違いないのか?」
明らかに怪しげな建物ではある。目の前には背の高さを超えるコンクリートの壁が広がっており、扉も固く閉ざされていて、中を覗き見ることは容易ではない。ここから見える範囲にとどまるが、その壁の向こう側にあるのは、二階建て程度の高さのこれまた無機質なコンクリートの建物。中に建っている建物の高さはそれほどでもないが、壁の長さから鑑みるに面積は相当大きい。そんな大きな建造物が、こんな森の中にまるでワープしてきたかのように建っているんだから、不気味と言う他ないだろう。
「警察のサーバーにハッキングしてNシステムのデータを引き出して、車が通った道順を辿ったらここに来たんですよ。ですから、限りなく間違いないです。途中で車を乗り換えていたら話は別ですが、恐らく経過時間的にそれは無いかと思われます」
「さらっとハッキングって言ったな」
「ええ。我が社には、うちと提携している会社が製造した携帯電話が、これまたうちが提携している会社が飛ばしているWi―Fiを受信すると、自動的にハッキングすることができるシステムがあります。その状態になると、ツァルに置いてあるパソコンから対象の携帯電話を操作することが可能になり、バックグラウンドでカメラなんかのアプリを立ち上げることができますし、メモ帳を見ることもできます。社内用のパスワードを携帯のメモに書いている人なんかが居れば、一発で警察のサーバーを乗っ取れますし、そうじゃなくてもボイスレコーダーやカメラを立ち上げて機密情報を録音することもできます。そう言う訳で、ハッキングなど簡単にできます」
思わず、入社した時に想から貰ったスマフォを見る。
「安心してください。ゼンさんのようにツァルの内情を知る人間には、そんな携帯電話渡さないですから」
「そうなのか?」
「ただご自分で機種変する時は気を付けてくださいね。参第電機が作っている機種だけにはしないように」
俺はそれを肝に銘じつつ、扉の方に歩いていった。
「中は見えねえが、これだけでかいと結構な人数が居るんじゃあねえか?」
「いえ、そうとは限りません。地図アプリ上でシルエットはくっきり映っているものの、社名や設備名が出てきませんから、オープンな施設ではないということです。すると、中で働いている人たちも少数精鋭である可能性が高いです。せめてどこの企業か解ればこちらとしても動きやすいのですが」
「喧嘩を売ったらまずい企業かも知れないのか」
その問いに想は暫く唸っていたが、回答が出たのかいつも通りの微笑みを浮かべる。
「ツァルとの連携がある会社だったら……、と思いましたが、その会社がツァルのあずかり知らぬ所でフォルトレスを引き取るのだとしたら、それはそれで調べなくてはいけませんからね。入っちゃいましょう」
「入っちゃいましょうって、大丈夫なのかよ」
「跳浦莉々を匿い、社名も施設名も出ない、明らかにオープンではない施設です。警察に通報することもできないはずですから、彼らは自分たちの力で捕まえなければいけない。ゼンさんが捕まるなんてそんなへまをするとは思えませんので。それに、僕が入ろうと言った時、嫌な予感はしましたか?」
俺は短く息を吐いて首を横に振った。
「ではよろしくお願いしますね」
正門には、電卓の様なものが取り付けられた扉があった。パスコードロックだろう。8桁の数字を入力しなければいけないようだ。パスコードなんて知らないが、知っている必要はない。俺は直感が働く通りにボタンを押した。すると、ピロンッという音と共に解錠された音が聞こえた。
ドアノブを回して中に入る。
その瞬間、嫌な予感がした。すぐさま前方に飛び、前回り受け身を取る。
——チュンッ!
と、後方の扉が音を立てた。今まで自分が居た位置に弾丸が撃ち込まれていたのだ。俺はジャケットを翻し、二丁のコルトガバメントをホルスターから抜き取りざま、照準を付けることなく、直感でトリガーを引いた。左右同時に。
左側の建物の二階のバルコニーから俺を狙い撃ったであろうスナイパーと、これから攻撃を加えようと右建物の陰から飛び出してきた男の短い叫び声が聞こえた。
——パパンッ。パパンッ。
と、更に両手で別々の方向にトリガーを引く。その度遠くでくぐもった叫び声が聞こえた。そんな中、正面から突っ込んでくる男が居た。俺は躊躇いもせず弾丸を放つ。
見事命中し、男が倒れると同時に、楕円形の鉄塊が転がってきた。
——手榴弾か!
俺が銃口を向けるより早く、影が視界の端を横切った。
「おい、爺さん!」
良煙寺理三郎は叫ぶ俺には目もくれず、そのまま手榴弾に向かい、まるでサッカーボールを蹴るかのように蹴り飛ばした。それは建物の中に入っていき、ほどなくして中から爆発音が響いた。
それを見届けると爺さんはゆっくりと戻ってきた。
「できれば戦いたくはないですが、仲間の窮地とあれば仕方ありませんから」
にっこりとほほ笑む。
俺は片方の眉だけを上げて見せて、後頭部を掻いた。
入った瞬間に武装した連中に囲まれたってことは、多分、俺が入ってくることは予想していたんだろう。元々追われていたことには気付いていたはずだし、恐らく塀の周りに防犯カメラの設置ぐらいはしているはずだからな。
ということは、跳浦莉々は既にどこか別の場所に移されていてもおかしくはない。だが、あのバス焼き事件を見て莉々を欲しがったというなら、戦闘人員が目当てだったということになる。なら、もしかしたら俺との対決を望んでいるかも知れないな。何せ“傷無し”。傷の付かない人間なら、どんだけ鉛玉プチ込んだところで関係ねえだろうし。この企業はどうか知らないが、カサブランカ的には俺は邪魔な人間だ。カサブランカに恩を返す為にも、殺せるんならマストで殺しに来るだろう。
などと考えながら、一切この身を忍ばせることなく中央の建物へと向かっていく。機動隊や警察が俺の動きを見たらド素人だと思うだろうな。周りに気を向けるどころか、銃を構えてすらいない。だが構える必要はない。なぜならさっきの攻防から、嫌な予感が全くしなくなった。全員が戦意喪失したか、或いは想の言う通り、少数精鋭でそこまで人が居なかったのかも知れない。つまり敵戦力は今ので削ぎ落した。それなら後先考える必要はない。
後方で死体の処理をしている爺さんを置いて、俺は向かっていた中央の一際でかい建物の中へと入った。
中は物凄く広いドーム状になっていた。二階建ての様に見えたが、まるっとこの空間に使っているらしい。そして向こう側の壁際には、白衣を着た大人と、小学一年生くらいの背丈の女子が居た。肩の下辺りまで伸びた艶々の黒は綺麗なストレートで、前髪はパッツン。おまけにおしろいでも塗ったかのように白いキメの細かい肌。まるで人形の様な——跳浦莉々が居た。2本の白いシリンダーがくっついたタンクの様なものをリュックを背負うみたいに担いでいて、手には細長いライフルの様なものが握られている。ただしそのライフル状のものの先端からは微量の炎が出ていた。恐らくあのバスを焼いた火炎放射器だ。
ターゲットが居て欲しい気持ちはあった。だが、どこかホッとしない、気まずさみたいなものも同時にあった。フォルトレス周りにいるやつらを蹴散らして、フォルトレスを自分の会社の社員に登用するパターンなら人助けの面もあるが、これは単なる殺しだ。次なる被害を出さないという大言壮語はあるが……。
俺は火炎放射器を持った“傷無し”に勝てるかどうかという勝算よりも、子供相手にやりづらいなということばかりを考えていた。
そうは言ってもやらなきゃいけない。そう思って一歩を踏みだす。
白衣の男は莉々に耳打ちをすると、壁に沿うようにして設置された階段を上り、ガラス張りの部屋の中に入っていった。銃口をそちらに向けたが、直感が働かない。ガラス越しの男も一切驚く様子も無いから、恐らく、防弾ガラスなのだろう。
そうしている間に、莉々は火炎放射器を構えて距離を詰めてきた。
「あいつに何を言われた?」
俺は気付いたら質問をしていた。なぜだろうか。母さんが助けた子供に似ているから気になったのか? 分からない。ただ、こんなに幼い少女が、どうしてフォルトレスになったのか。その辻褄合わせが未だにできていない。児童や教員を殺したことは悪魔の所業かも知れないが、もしも彼女が被害者で復讐の為にやったのだとしたら、昔の俺と変わらない。それにもしも姉貴と同様に自分の置かれている立場が解っていないだけなのだとしたら、俺がこれから振るう力はただの不義だ。想は政府の手に下った時点でそのフォルトレスを悪党扱いするが、理由を聞かないことには、俺だって納得して仕事できねえ。小学生にしてふざけんなレベルのクズ中のクズなら殺すが、相対した感じ、そんな雰囲気じゃあない。だが莉々は問いかけに答える様子もなく、近づいてくる。
相手の瞳の動きを捉えられるような位置にまで来た。距離にして10メートル無いか。莉々の光の無い瞳の焦点は、合っていないように思えた。
「バスを丸焼きにしたのはお前か?」
ピクッと肩が震えるのを確認した。
「どうしてそんなことをした?」
問い掛け続けると、彼女の肩は連続して小刻みに震え始めた。
「友達だったんじゃあねえのか?」
想が言っていた通り、憶測に憶測を重ねたら真実が有耶無耶になっちまうかも知れない。だが全くの適当ってわけじゃあねえ。もしも莉々との関連——例えば私怨があってやったのなら、同じクラスである確率はグンと上がるからな。それにバスで死んだのは39人の生徒。この辺の学校は基本一クラスあたり40人だから、その不足の一名が莉々だというなら、辻褄は合ってくる。
莉々は絞り出すように声を上げた。
「あたしのことを……バケモノって言ったから!」
同時に火炎放射器のマズルから火が噴き出る。俺はそれを躱し、走りながら問い続ける。
「それだけか?」
「だれもあたしの言うことを信じてくれなかった! パパもママも友だちもみんなみんなてきだった!」
炎が散らされる。俺はそれに当たらないよう躱し続けた。
「あたしはくるしいって言ったのに! 先生がわるいのに! なのに! みんなしてあたしをわるものにしたの!」
放たれる火は俺に掠りもしないが、炎を振り回している当の本人の服はいつの間にかチリチリと燃えていた。
だがそこから見える白い素肌は一切爛れず、健康的だった。
なるほど。確かに傷は付かないらしいな。だとすると、持たせる武器が丁度いい。恐らく身体能力は小学生のままだ。なら近接武器で肉薄して戦うスタイルは絶対に避けるべきだ。そして銃なんかも最初のコッキングをするのに握力が居る。マシンガンも狙いを付ける前に発射した反動で尻餅を搗いちまうだろう。だが、火炎放射器なら本人に来る反動が少ない。その分火に近いから火傷を負ってしまうリスクは付いて回るが、“傷無し”だから問題ないってわけだ。
恐らくバスを焼いたのも、莉々が火傷への耐性があるかどうかを試したんだろうな。傷は付かないが、火傷は負うかも知れない。だが実際火傷すら負わない体だということが解った。そうしてこの企業に持ってこられたわけか。
「なあ」
俺は両方の銃をぶら下げて莉々を見据えた。
「熱くはないのか?」
「あついよ」
「ならもうやめねえか」
「ダメだよ! あなたをたおさないとダメなの! あなたは、やさしいあの人、カサブランカのシスターさんのてきなの!」
こっちは構えてないってのに関係なく放射してきやがる。まあ当たらねえけど。
しかし、カサブランカのシスターか。良く分からん情報が出て来ちまったが、これは後で想に聞くとして、多分騙されているよな。一度企業に渡ったフォルトレスが元の場所へ戻るなんて聞いたことねえ。
「莉々。お前は騙されている」
「だまされてない! おにいさんがあたしをだまそうとしているの!」
「お前は俺を知っているのか? 嘘吐きだって誰かに教えられたのか?」
「知らないよ! でもてきだからたおしてこいって言われた」
「へえ。知らない相手を殺してくるように命令するような奴のことを聞くんだな。お前は」
「へ……?」
莉々の動きが止まった。マズルが下を向く。
「莉々。お前はまだ幼い。だからお前の心の隙間を狙って大人たちがお前を操ろうとする。何が正しくて間違っているかが分かんねえうちに、人を殺せと命令するような奴らはろくなもんじゃあないはずだ。確かに俺のことは信じられないだろう。初対面なんだから無理に信じなくていい。だが、そんな奴らのことも信じるな」
視線が外れた。今なら火炎放射器のマズルを撃って無力化できるか?
『跳浦莉々』
そんな思惑を切り裂くように、天井のスピーカーから音声が流れた。先の白衣の男の方を見ると、ガラス越しにマイクに向かって口を開いているのが見えた。
『今、目の前に居るその人は、先生のお友達だよ』
先生? 莉々の担任の先生ってことか?
莉々の表情が瞬間凍り付く。
『君をレイプした先生のね。もちろん君がレイプされたことも知っている。それでも先生の味方をする悪い人なんだよ。だからこうして先生の復讐のために君を殺しに来たんだ』
「でたらめだ! おい、莉々! 騙されるな……よ?」
居ない。さっきまでの場所に居ない。ゾクッと悪寒が奔って、思い切り前に飛んだ。遅れて炎が放射された。すぐさま立ち上がり全力で走った。後ろを見なくても解る。とにかく距離を取らなければならない。遮二無二走って、ようやく距離が開いたところで、ジャケットを脱いだ。
俺が振り返ると、莉々も足を止めた。両方の目から涙を流し、鼻の下も光っている。炎で自分の衣服が焼けてしまって、胸からお腹の辺りまでが露出していた。ほとんど皮だけであばらが浮いていた。まるで姉貴の体みたいだ。
そうか。フォルトレスになった原因は、それか。誰も信じてくれなかったとか言っていたが、もしかしたら親もネグレクトしていたのかも知れないな。こんなにやせ細っているのは、親がまともに飯を食わせてくれなかったってことなんだろうから。辛いよな。そりゃ死にたくなるよな。
母さんが助けたあの子供は、虐待されて死んだが、絶望はしなかった。だからフォルトレスにはならなかった。対してこいつはこの歳にして、“欠落無くし”に目を付けられた。なんとか救えねえかよ、そう思った時、姉貴の笑った顔が浮かんだ。姉貴は多分母さんの死をきっかけにフォルトレスになった。しかしそれでも俺を守ろうとした。絶望のその先にも、未来はあるんだということを、姉貴はボロボロになった精神と体で俺に体現してくれたんだ。
ジャケットを丸めて構える。
「《《跳浦》》。俺はお前を殺して、お前を守る」
丸めたジャケットを莉々に向かって思い切り投げた。
火炎放射器で燃やされ押し戻されそうになるが、構わずジャケットに弾丸を撃ち込む。あのジャケットのポケットにはマガジンが入っている。ただの服なら弾丸が貫通して終わりだが、マガジンに当たれば反動で前に進む。弾丸によりジャケットは加速して、莉々の顔めがけて飛んで行った。
顔にまとわりついたジャケットを引き離しながら、莉々が声を上げる。
「こんなことしたってむだだよ。だってあた、し……は」
莉々はそのままその場に頽れた。
すぐさま駆け寄って炎に塗れたジャケットを引っぺがす。
「あっちぃ!」
掌がベロベロになるなこりゃ。くっそ。
でもこいつはこれくらい熱いのを我慢して戦っていたんだよな。
『莉々! 立ちなさい! ……糞!』
俺は莉々の呼吸があることを確認して、座り込みながら白衣の男の方へ向けて言葉を放った。
「流石の“傷無し”でも、《《酸欠にはなる》》らしいな」
『どうしてそれが効果的だと解った!?』
「お前が用意したフィールドが無駄にでかいから、おかしいと思ったんだ。火炎放射器を使うなら、狭い所の方が好都合のはずだ。なら何か理由があるはずだろ? そこに的を絞って考えれば簡単に想像がつくのさ。きっとお前らは、莉々がバスでクラスの奴らを焼いた時にこいつが酸欠になったという情報をカサブランカから貰っていたんだろう。だからこんなに広い場所を用意した。違うか?」
すると白衣の男は俺の問いかけには答えずマイクから手を放し、部屋を出た。それから階段を急ぎ足で降りて行く。この位置からじゃあ当たらないと思っているんだろうな。
——パンッ。
だが俺の俯瞰的直感はノーレンジだ。どれだけ遠く離れていても、多分ここに向けて撃ったら殺せるって場所が解る。今のはお前が死ぬ、《《良い予感がしたぜ》》。
ゴロゴロと白衣の男が階段を転がり落ちる音が聞こえた。
俺はすやすやと穏やかに眠る少女に視線を戻した。
しかし酸欠で失神って、どれくらいで意識戻るんだ? そこまでは考えてなかったが、病院連れて行かないといけないとかだと面倒だな。多分針が通らないから注射も無理だろうし。
俺はシャツを脱いでから、莉々が背負っている火炎放射器のタンクを外し、自分のシャツで露出した肌を覆って、抱えた。
信じられない程軽かった。
建物の外へ出ると当たりはオレンジ色に染まっていた。良煙寺の爺さんが近付いてくる。
俺の腕で眠る莉々を見て、首を傾げた。
「おや、生きていますね」
「ああ、寝ているだけだ」
俺ら二人の会話を聞いて、想が莉々の寝顔を覗き込んだ。
「写真通り、可愛らしい方ですね。しかしゼンさん。ターゲットは抹殺せねばなりません、忘れていませんよね?」
「そのことなんだが、どうにかならないか」
「無茶言わないでください。どうにもなりませんよ。フォルトレス“傷無し”の情報はツァルのスタッフに知れ渡っていますし、抹殺する方向で話も決まっています」
「こいつはまだ子供だ」
「子供だからです。これからどうなるか分からない、リスクファクターそのものを、ツァルに置くわけにはいかない。また今回の様に多量に人を殺すような事件を起こすかも知れない。そうなった時、誰も責任を取れません。僕の判断では彼女は生かしておけませんし、所長に指示を仰いだところで決断は変わりませんよ」
「……そうか」
俺はゆっくりと莉々を地面に降ろした刹那に、二丁のガバメントをホルスターから引き抜き、二人の額に向けた。
爺さんは無感動に手を挙げて、反撃の姿勢を見せない。対して想は姿勢を崩さずいつも通りの微笑みを俺に向けながら、目だけが笑っていなかった。
「どういうつもりですか?」
「こいつは殺さない」
「どうして?」
「罪を犯していないからだ」
「何人も人を殺していますよ」
「想、お前が昔俺に言ったことだぜ」
「何のことですか」
「俺がクソ親父を殺した時、お前は俺が悪くないと言ったよな。ただ正義を貫いただけだって」
「言いましたね。彼女もそうだというのですか?」
「そうだ。こいつは担任に犯された。それを両親に言っても信用されなかった。恐らくそれがフォルトレスになった要因だ。こいつのクラスメイトはフォルトレスになったこいつをバケモノ呼ばわりしたらしい。その上で、カサブランカの奴らにそそのかされてバス焼きをやったのなら、十分に情状酌量の余地があるだろ」
話をそこまで聞くと想は茜色の空へと視線を移した。
「いやあ、ゼンさん分かってないなあ」
不思議なことを言う想に向かって、片眉を下げるジェスチャーで疑問を投げる。
想は俺に銃を突きつけられていながらにタブレットを操作して、画面を俺に向けた。
そこに映し出されたのはワイドショー番組だった。事故で両親死亡、娘はどうして無傷だったのか。と言う大見出しがある。
「事故当日、政府が圧力をかけて放送を禁止していた防犯カメラの映像です。事故の件は口頭では説明しましたが、映像はまだ見せていませんでしたね」
車が中央分離帯に激突し、中から莉々が吹っ飛んでいって壁に打ち付けられ、地面に倒れた所を車が踏みつぶすところまでが映し出されていた。タブレットのスピーカーからはやや興奮気味の男の声が『これは異常だ』『普通は死んでいる』『人間とは思えない』などと、宣っている。更には事故直前の車の運転の仕方が普通ではないことを指摘し『ドライバーは既にこの時死んでいたのではないか。だとしたらいったい誰に殺されたのか。まさか有り得ないとは思いますが』などと、最後まで決定的な物言いはしないものの、莉々が殺したと言わんばかりの発言までいう始末だ。そのうえ、莉々の顔写真がデカデカと画面に映っている。これじゃあまるで事件の犯人、性質の悪い印象操作だ。
動画が終わり、想はタブレットの電源を切り、抱えた。
「フォルトレスになった時点で、相応の絶望を味わっているのはこちらだって解っています。それを知ったうえでの、殺そうという判断なんです。それに彼女は今、相当気が昂っているし、先生、両親、クラスメイトへの憎悪の念が強くあるから、ある意味で正気を保っていられます。しかしひとたびその憎悪の波が引けば、そこに現れ出でるのは、小学一年生の精神。正真正銘の正気で、耐えられますか? 絶望するほどの過去を、自身の手で何十人も人を殺したという事実を、世間の衆目を、受け止められますか? ゼンさん、貴方は酷なことをしようとしているんですよ。だから分かってないなあと言ったんです」
俺はしかしそれでもトリガーから指を放さなかった。
「そんなことかよ」
「いや、そんなことって」
「俺は復讐のために初対面の奴や実の親を殺して、全く良心の呵責に苛まれていないような人間だぜ? 今後莉々が自分を責めるようなことがあれば、俺は正義の名のもとに莉々を全肯定する。それが人殺しにできる、人殺しの救済方法だ」
俺がこの世に発生したのも、ゴミじゃないのも、人殺しなのも、警察に捕まらずに今生きているのも、全てこいつを生かしておく為のことだったと思いたい。その為に生まれてきたんだと思いたい。
姉貴の様に意味も分からないままに死んでしまうフォルトレスであって欲しくない。母さんが助けたのに虐待されて死んでしまう子供であって欲しくない。同じ復讐者なのに、莉々だけが許されない世界で死んで欲しくない。彼女が生きると言うことは、姉貴と母さんと俺の全肯定なんだ。独り善がりでもなんでもいい。死が唯一の救いだと言って憚る世界から守りたい。生きていて良かったと思える世界で生きて欲しい。フォルトレスとして、子供として、復讐に囚われた人殺しとして、生きて欲しい。
「それに、約束したよな。俺のワガママを聞いてくれるって」
想はまずキョトンとして、次に「はああっ」とわざとらしく大袈裟なため息を吐いて、それから肩を竦めて、そして笑った。
「敵わないなあ」
帰りはツァルの人間が迎えに来て、俺達はその車に乗ることになった。
想がジャケットを貸してくれたので、それを莉々に巻いて、俺は自分のシャツを着直した。
「じゃあまずは理三郎さんとゼンさんを駅まで送って行ってください」
車に乗ると同時に、助手席に座った想が、運転手に指示する。しかし車は発進しない。ミラー越しに俺の腕に抱えられた莉々を見て目をぱちくりさせている。
「えっと、あれ? 仕事は無事に終了したのよね? えっと、あー、ごめんなさい。ちょっと確認だけど、いい?」
「なんでしょう」
「あのゼンさんに抱えられている子は、跳浦莉々、つまりその、ターゲットではないのかしら? 他人の空似かしら?」
「跳浦莉々は死にましたよ。理三郎さんが葬儀も済ませました。そして今ゼンさんの腕の中で眠っているのは渓谷莉々というゼンさんの《《妹さん》》です。ああ、安心してください。これから髪を染めたり切ったりパーマをかけたりして、《《跳浦感》》は無くなる予定ですから」
そんなの初めて聞いたぞ。っていうか、俺の妹ってなんだ。とツッコミたい所だが、それを言ったら、想が莉々の命を救うために30分くらいで考えた嘘がパアになっちまう。だから俺は口を噤んだ。
「最後の《《跳浦感》》ってのは物凄く、ものすごーっく違和感がある発言だけれどもそれは置いといて、えっと、何? 枕真がオフィスに電話をよこして、この私、伊深真実をわざわざ指名して、彼女にしか頼めない仕事があるから来てくれと言われたから、書きかけの対策書や期日の迫ったチェック表なんかも全て諦めて即行で来たのに、つまりは、あなたの嘘に騙される人間が必要だった? と? そう言うことなのかしらね? うん?」
スレンダーゆえにシャープな印象を与えるマサネは、言葉も鋭利だ。語調こそ丁寧だが、想に対しての怒りがそこかしこに見える。それに想より身長も高いので、視線的にどうしても威圧感が出る。しかし想はけろっとしており、悪びれる様子もなくいつも通りの笑顔だ。
「その辺のところは、お二人が居なくなってからお話しますよ。取り敢えず出発しましょう」
マサネは、想の言葉にギリッという歯ぎしりで返し、ニュートラルからドライブに入れた。
車が動き出す。
「そういえばゼンさん、お気に入りのジャケットはどうしました?」
想がミラー越しに俺を見る。
「燃えたよ」
あの、出掛ける前にジャケットを羽織った時に感じた違和は、恐らくこれだったんだろう。脱いだ時に嫌な予感がしたから羽織っていくことにしたが、ジャケットが無かったら莉々に対抗する手段が無かったからなんだろう。
「全く、俯瞰的直感も完璧じゃあねえな」
想は身を捩って、ため息を吐く俺に向かって、いたずらっぽい笑みを見せた。
「そう言えばさっき、俯瞰的直感的にはどうでした?」
さっきと言うのは、俺が想と爺さんに銃口を向けた時のことだろう。
「すげえ嫌な予感がしてたわ。絶対に撃っちゃいけないってな」
想は目を細めて満足そうだ。隣の爺さんも皺を深くして笑っている。
「では、何がどうあっても僕は大丈夫だったんですねえ」
「それはちょっと違うんじゃあねえかと思うぜ」
想は首を傾げた。
「だって俺は完璧じゃあない。だから間違った道も、自分の意思で選択することができるんだ」
能力を無視してお前を殺していたかも知れない。と、そういうことを告白しているというのに、こいつはますます目を細めて口角を吊り上げた。
「いやあ、やはり部下にして良かった。これからもゼンさんのワガママをたくさん聞いてあげますから、僕のワガママもたくさん聞いてくださいね」
底の知れねえ奴だ。敵わねえぜ、全く。
駅まで送ってくれるという話だったが、莉々を抱えて電車に乗るのは目立つし、テレビで顔を見た奴が騒ぎ出したら大変なことになるということで、行先は自宅となった。
都心のタワーマンション。ここがツァルの寮だって言うんだから冗談きついよな。だが冗談じゃあない。実際に俺はこのマンションに無料で住まわせてもらってる。なんでもツァルは建設関係にも人材を派遣しているらしく、一からCADで製図できるレベルの有資格者も何人か居て、建設事業の請負なんかもやっていたりするそうだ。スーパーゼネコンの碁重根建設とは特に密な信頼関係があり、建物一つをまるっと請け負ったりすることもあるらしい。そんでこのタワーマンションもその一つなんだそうだ。だからってどうして寮になっているのかは知らねえが、いわゆる一つの広告塔なのかも知れない。ツァルという会社の名前を売る為の。このタワーマンションはツァルの人間が設計して建てて、社員はそこに住んでいます、と言うと確かに人目を引くしな。
俺の部屋はそこの21階の2103号室。
莉々を抱えたまま入り、玄関の錠を掛けた。するとその時、もぞもぞと腕の中で莉々が動いた。
パッと開いた目が合うと、数瞬の間を置いてから莉々の顔が引きつった。
「いやああああああ!」
手足をばたつかせて暴れる莉々を落ち着かせようと抱きしめる。
「大丈夫だ。落ち着け」
「いや、いやああ!」
手足をどれだけ振り回しても効果が無いことが解ったのか、今度は思い切り首元を噛んできた。
「いっ!」
だが離すわけにはいかない。
「悪かった。落ち着いて話を……」
俺の位置からじゃあ莉々の頭の天辺しか見ることは叶わないが、熱いものが俺の首筋を伝っては落ちているのが解った。それは歯茎から出た血ではないだろう。彼女は“傷無し”なんだから。
「痛くねえか? お前、傷は付かないが、痛みは感じるんだろ? そんなに思いっきり噛んだら、お前の顎の方が痛くなっちまうぜ。俺は……」
迷った。多分今、莉々は担任にされたことを思い出してしまったんだろう。俺に抱きすくめられて、その時の情景がフラッシュバックしたんだろうと思う。軽率だった。そいつの友達ではないと言ったところで、余計に思い出しちまうよな。
「俺は、ただの人殺しだ。だから、安心しろ」
何を言っているんだろうな、俺は。でも、味方だってことは、解ってくれねえかな。無理か。
莉々の唾を飲む音が聞こえ、少しだけ俺の首を噛む力が弱まった。
「疑わしいのなら、信じなくていい。全部お前が正しいから。無理に信じなくていいから、お前が痛いと感じることを、もう、しないでくれ」
莉々の心の速度に、俺の言葉は遅すぎる。支離滅裂過ぎるが、とにかく痛い思いをしないで欲しいということだけは伝えたかった。
彼女の体から完全に力が抜け、ずるりと滑り落ちるように、額が鎖骨に当てられる。
震える肩をできる限りゆっくりと、最大限優しく、触れた。
誰だよ。“傷無し”なんて名前を付けたのは。本当はこんなに傷だらけじゃあねえかよ。やっぱりただの小学生じゃあねえかよ。
母さんの葬式の時、ギリギリの精神状態で、それでも俺のことを抱きしめてくれた姉貴のあの温もりを思い出した。きっと今の莉々はあの時の俺以上に、怒りに満ちて、不安で、やるせなくて、誰も信じられなくて、悲しくて、辛くて、ややこしい感情が渦巻いているはずだ。
俺は、もう一度噛まれて今度こそは頸動脈を食い破られても仕方ない、という覚悟を胸に、そっと抱き寄せた。なぜって、あの時の俺はこれをされて、とても穏やかな気持ちになったから。抱擁は傷つける為じゃあなく、優しさや慈しみを与える為に在るものだから。
莉々は一瞬だけ体を強張らせたが、それからほどなくして強張りは取れ、それから今度は感情を爆発させたように咽び泣いた。
頭に手を乗せて毛並みに沿うよう、緩やかに撫でる。
「これからは俺が莉々を守るからな。大丈夫だからな」
莉々はそれから数日間、口を開くことはなかった。
それどころか飯も食わない。お菓子も食べないし、ジュースも飲まない。色々と思い出しているんだろう。処理しきれるわけないよな。やっぱ想が言う通り、俺は酷なことをしているんだな。だからってこのまま放って置いたら餓死しちまう。
「なあ、莉々。俺はお前のワガママを何でも聞く。何でも買ってやるし、何からでも守ってやるし、なんだって見せてやる。だから、一個だけ。たった一つだけ俺のお願いを聞いて欲しい」
俺は膝立ちになって、ソファに座った莉々を見上げた。
「生きてくれ」
ほんの少し、瞳孔が狭まったのが解った。眩しいものを見た時の反射的に起こる現象。ようやくその時瞳に光が映ったように見えた。あの時開くことの無かった姉貴の眼がそこに在るように感じた。7年ぶりに感じる家族という存在に、胸が熱くなる。なんか、莉々の事件を追い始めてから、やたらと姉貴のことを思い出すな。と考えていると、莉々は俺の顔を不思議そうに覗き込み、人差し指を曲げて、俺の目尻に宛がった。
「あ」
いつの間に涙が流れていたのか。
「悪い」
この前守ると言ったばかりなのに。今ワガママを全部聞くって言ったのに。自分がこれじゃあな。でも止まってくれない。ただただ流れていく。
結局俺は、俺が救われたいが為に、手っ取り早く自己肯定したいが為に、莉々を守ろうとしただけだったのか。なんてズルい奴だ。こんな子供を利用して。
項垂れていると、頭に何かが乗った感触があった。それは莉々の手だった。
ゴシゴシと擦るようにさすられる。
「お兄ちゃんのお名前は?」
「……ゼン」
「じゃあゼン。これでおあいこだよ?」
俺が顔を上げると、莉々はビクッとしてから、視線を彷徨わせ、やがて落とした。
「ゼンは、悪い人じゃないね」
「……そうか?」
「うん。あの人がうそを言ったんだね。きっと」
「そうか」
「ゼンは、あたしがごはんを食べなくて泣いたんでしょ?」
「ああそうだ」
自分の抱えている問題の大きさのせいで食事が喉を通らない、声を発せない、そんな状態でも、目の前に泣く人が居たら自分のことなんてそっちのけで手を差し伸べることができる。本当に本当に本当に、優しい無垢な子じゃねえか。周りの奴らがまともだったら、フォルトレスにも人殺しにもなってない。莉々は全く悪くない。こいつが死んで良かったと思える世界なんて、間違ってる。
「ママはね。パパにきらわれるから太っちゃだめよって言ってた。だからもっとほしいって言っても、なにもくれなかったし、あたしが食べないって言うとよろこんでくれた。でもママはあたしの言うことをしんじてくれなかった。それがとってもいやだった。ゼンはあたしのことをしんじてくれるの?」
「信じるさ」
「なら、ごはん食べるね」
莉々の微笑みに、全てが救われたような気がした。俺は、この世にはまだこんなに幸せなことがあるんだということ知った。生きて欲しい人が生きてくれる。生きようとしてくれる。それがどれだけ尊いものなのか。人殺しじゃあない奴になんか、どうせ分からねえだろと思った。
想に言われた通り、莉々の髪色と髪型を変えることにした。戸籍上死んだことになっているから学校に通わせるのは無理だが、何でも見せてやると約束した以上、外を出歩けるようにしておかねえとな、と思ったからだ。
「莉々は、キンパツがいい。ゼンみたいになるの」
その頃にはもう、随分と懐いてくれていて、髪型髪色の変更はスムーズにできた。金髪にウェーヴを掛けて、前髪も七三分けにした。長さはあまり変えてない。
そして今日は、初めて二人で出掛ける日だ。都内の遊園施設などに行く予定。
今日の莉々の服装のコーディネイターは伊深真実だ。莉々曰くマサ姉ちゃん。マサネが想に何を言われたのか分からないが、ある日突然俺の元にやってきて、莉々の服をプレゼントしていった。確かに着るものが無くて、俺のワイシャツやらTシャツやらを無理矢理着せていたから助かった。
金髪ウェーヴに真っ白素肌、そこにお姫様系とでも言うべきコーディネイトで、完全に人形だなと思った。ゴスロリ? とか言う奴か? サブカルファッションのようにも思えた。まあ何でもいい可愛いし。それに黒が基調ってのもいいな。
ダイニングテーブルの向かいに座って朝食を取る莉々を、コーヒーを飲みながら何となく見ていた。そしてコーヒーをズズッと啜った時、不意に嫌な予感がした。トーストを齧っている莉々を尻目に、俺は席を離れ、リビングのテーブルの引き出しに入れておいたコルトガバメントを手に取り、窓を開け、バルコニーに出た。
「この辺か……?」
直感通りにトリガーを引く。
弾丸はマンションの下の公園の木の下に吸い込まれていった。遠いので何に当たったかは分からない。だが嫌な予感は消えたので、狙いは外していない。
朝食を食べ終えて、部屋を出て、一階にまで下りてロビーを抜けると、さっき俺が弾丸を撃ち込んだ辺りで、泣きながら何かを袋に入れている奴が居た。完全に不審人物だ。だが、何を拾っているんだろうか。見るとそれはどうやらカメラの部品らしかった。
「おい不審者」
俺が声を掛けるとその男は振り向き、俺を見たあと莉々を見て口をパクパクさせていた。
「お前みたいな不審者、通報するのは簡単なんだがな」
「俺は不審者じゃあない! ジャーナリストだ! あのバスをやい……」
ホルスターから抜き出したガバメントの銃口を、男の眼前に向ける。
「莉々のことを追っているんだな? いいぜ。俺が受けて立つ。テメエのカメラは俺にとってのチャカみてえなもんだ。解るな? どっちも相手の人生をぶっ壊す道具さ。もし万一テメエが莉々の姿をファインダーに収めやがったら、俺はテメエの脳天を打ち抜く。それでもいいなら来ればいい。俺はテメエらみたいに逃げも隠れもしねえ。堂々と殺してやる」
ゴミを見る目で睨み付ける。マズルでゴリッと男の額を押すと、なんだかよく分からねえ悲鳴を上げながら一目散に逃げて行った。
キョトンとした顔で一部始終を見ていた莉々が不意に呟いた。
「ゼン。あの人悪い人?」
「そうだ。莉々を狙ってた」
不安げな表情で俺を見上げる。
俺は腰を落として、莉々の眼を見て笑った。
「大丈夫。莉々は俺が守るから」
頭を撫でてやると、莉々は満面の笑みを咲かせた。
こんな日が、ゆっくりと流れる幸せな日常が、いくつもいくつも重なって、いつか莉々が背負わされた不幸が見えなくなるくらいになればいい。跳浦莉々だったことを忘れ、渓谷莉々として、幸せを甘受して生きていって欲しい。そう、願う。だが、さすがに無理か。簡単じゃあない。忘れるってのは、なかなか……。
俺が少しだけ表情を暗くする一方で、莉々はますます笑みを深めていた。莉々は俺の手を取った。
「ねえ、行こうよ。ゼン」
ああ、そうだな。少なくとも今ここに居るのは、俺の妹、渓谷莉々だ。
#創作大賞2023