『引きこもり探偵』第五話 恋みのって、夏
「編砂さん、僕と恋仲になろう」
編砂が部屋に入ってくるや否や、文時はそんな言葉を口にしていた。
開かれたドアから、アスファルトの熱を吸った風が入り込み、彼女のストレートに降ろされた黒髪を揺らした。青芒の匂いとやわらかな石鹸の匂いが混ざって、六畳一間は夏に包まれる。
彼女は良いとも悪いとも言わず、呆気に取られ、ただ一点を見つめ、それからコンビニ袋をズドンと落とした。ぐちゃっと言う艶めかしい擬音はプリンのものだろう。
それから勝手にドアが閉まり始め、バタンという音に押されるようにして、
「え?」
ようやく咽喉から出た言葉がそれであった。
文時は顎の無精ひげをシャリッと撫ぜ、畳の上で円を描くように歩き始めた。ゆっくりと。
「あれから数日間、殺人事件は一件も起きていない。人が命を落としたと言えば、交通事故や遭難のようなものばかりで、難解な、それこそ僕を必要とするような事件は起きていない。と、ここへ来る前のメールで君は打っているね」
「はい」
「つまり、いよいよもって日本政府の読みの正しさが濃厚になってきていると言うことだよ。もう観念しよう。僕が殺人事件を引き起こしているに違いない」
「――え、いや、ちょっと待ってください!」
「そう仮定した時、今一番危険なのは編砂さん、貴女だ」
ビシッと指をさされ、編砂は唾を飲み込んだ。
「僕と唯一出会っている人だからね。僕が殺人事件のトリガーになるのなら、一番近くに居る編砂さんこそが、最も殺される可能性が高い」
「確かに、言われてみれば。でもなんで恋仲に?」
恋仲、と言葉を発し、遅れて頬を紅潮させる。言い馴れない言葉が彼女に羞恥心を感じさせたのだろう。
「推理小説のみならず、ミステリ漫画を読み漁った結果、名探偵の恋人は100%死なないことが判明したんだよ。日本政府が僕を軟禁している理由も、こういったフィクションに存在するセオリーを基にした仮設だろう?」
「そうですね」
指していた指を上に向け、顔の前に立て、鼻の頭を一度だけトンと叩く。
「そのセオリーが正しいのであればこの、恋人は100%死なない、と言うセオリーも当てはまり、矛盾しない」
「あの、それでもいきなり、恋仲、だなんて……! 急には決められませんし。帰ってから、ゆっくり、考えさせてください」
編砂は歯切れ悪く、言葉を紡ぐ。呼吸が乱れて、頭が回っていないといった雰囲気だ。
「駄目だ」
文時は真剣な眼差しで編砂を射抜いた。彼女はその場で硬直してしまう。彼は今まで彼女の前でへらへらと笑ってばかりだった。編砂がここまで真剣な表情を見たのは初めてのことだったに違いない。それゆえ、真剣な眼差しという一点。ただそれだけで、文時が考えている事の重大さ、切迫した危機感を十分に伝えられたようだった。
「これは君の命の危機だ。家に帰って考えるような真似をしてみろ。死ぬぞ。確実に」
「ええ!?」
「いいかい。冷静に考えてみるんだ。主人公から告白されたヒロイン。ヒロインは次に会った時にOKであれNGであれ伝えようと考える」
文時は両手を広げ、それから指を組んだ。それから顎をくいっと上げ視線は天井へ。
「私、今度彼に会ったらこの思いを伝えるんだ」
指を組んだまま、真顔で向き直る。
「これ……、死亡フラグだよね!」
編砂は文時を指し、口に手を当て数瞬置いてから声を戦慄かせた。
「あ、ああ……、ああぁーーーー!」
「絶対に横断歩道を歩いている途中で信号無視してきた車に轢かれるパターンだと思わないかい!?」
更に詰め寄られ、がくんがくんと首を縦に振る編砂。
そうしてお互いに確信を得た所で冷静になる。当たり前だ。選択を間違えれば編砂の命は無いのだから。そしてその選択に余地などない。
「改めて聞くよ。僕と恋仲になってくれるかい?」
「はい」
そこには青春のときめきのようなものはなく、二人ともいたって真面目な顔で、業務内容の確認をするかのような問答であった。
「ところで恋仲になったからには、お互いに名前で呼んだ方が良いと思うんだ。僕は文時、君の名は?」
「澄亜。編砂澄亜です」
プリンの匂い漂う玄関から一歩も動かず、彼女は告白を承諾したのち、ようやく名を名乗った。二人が出会って2か月目の、蝉時雨が壁を突き抜ける夏の午後のことだった。
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