『引きこもり探偵』最終話 廻り巡って、冬
マンションの一室。壁の色と同じ白色のLEDが煌々と輝く清潔感のあるキッチンに、編砂澄亜は仕事帰りのままの、上下キャメルのスカートスーツを着て立っていた。
編砂はおもむろに手を合わせて目を瞑り、呟いた。祈り、というよりは世間話のそれに似た口上で。
「文時さん、今日も事件が起きました」
名探偵が死に、この世界では事件が起こらなくなったのか。
否。霊魂と化した文時の周りでは、次々と事件が起きていった。
まず手始めに、彼の葬式の最中にそれは起きた。
霊魂だった彼は、警官の体に入って謎を解き、事件を解決に導いた。だが、事件解明に一生懸命になるあまりに機を逸した。成仏の機を。当たり前のことだが、彼は初めて死んだので、成仏の仕方が分からなかった。だからとりあえず、一緒に火葬場に入って焼かれれば天国或いは地獄に行けるのかなとぼんやり思っていたが、気付いたら自身の遺体が荼毘に付されていたのだ。
肩を落としながら葬式会場を後にすると、そこでまたもや事件が勃発。彼はその度に近くに居た警官の体に入り込み、次々と事件の謎を解いていった。
そして思い至る。
(なーんだ! 僕が死んでも、事件は起きるんじゃあないか! 今までのはただの偶然だったんだ! あー、良かった!)
彼はそれからも、あらゆる場所を訪れては事件を解決に導いた。
日本政府の考えが正しいのならば、霊魂であろうが彼が現世に居る限り、事件は起き、謎は尽きることなく現れるだろう。同時に尽きない謎のせいで彼が成仏することはない。そして、彼の名推理は、世界全人類が死に切るまで続くことだろう。
しかしこれは本当に、彼が霊魂としてこの世に残っているから起きていることなのであろうか。
編砂は目を開けて微笑みを湛える。
彼女の前には冷蔵庫。その真ん中に貼られたシールに描かれた全知全能の神様。色褪せたそれを見つめる。
「文時さんが居なくなってから、世界では事件が絶えません。きっと文時さんは、起きてしまうはずの事件を起きないようにする力を持った人だったんですよ。そしてそれでも起こってしまった時には颯爽と現れて解決してくれる。そんなヒーロー」
編砂が口にしたその可能性も、空論とは言え否定できない考察だ。
彼女らが交際した時、日本政府の空論が一つの真実であったように、彼を亡くした今、彼女が語るこの空論も一つの真実なのである。
前に垂れてきた髪の毛を耳の後ろにかきあげる。その左手の薬指に、銀色が輝いた。
文時を殺されてしまった彼女。
新しい出会いを受け入れた彼女。
今が幸せだからと言って過去の不幸が無かったことになりはしないように。現在落ちぶれているからと言って過去の栄光が無かったことになりはしないように。編砂が文時と過ごした六畳一間の美しき日々は、これからどれだけ幸せが訪れようと、これからどれだけ凄惨な出来事が起きようと、これからどれだけ季節が廻ろうと、色褪せずにあの時のまま輝き続ける。
彼女の人生は振り返ればただの一本道かも知れないが、それまでに数えきれないほどの選択肢があり、その度に迷いが、諦めが、苦悩が、苦痛が、底なしの後悔があったことだろう。それらを全て不正解と呼べるほど人は強くなく、同時に正解と呼べるほど浅はかでもない。
彼女のその人生を、幸せという一つの言葉で言い表すことができないように、名探偵起戸見文時の壮絶なる人生の解を導き出す必要は、初めから無かったのかも知れない。
少なくとも彼は日本政府にとって厄介者で。
少なくとも彼は編砂澄亜にとって救世主で。
少なくとも彼は起戸見文時にとって自身で。
——そう、真実はいつも一つとは限らない。
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