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【雑感】就活と恋愛、からの刑法178条

 確かに、就活は優秀な人から決まってゆく。嘘偽りない真理であるけど、どの点において優秀なのか。ご存知、嘘なのです。
 おお、嘘。おお、なんと不穏な言葉でしょう。いやいや、さっさと内定を貰っている人はみんな悉く誠実で真面目な人ですよ、と思っているあなたは要注意。なぜならあなたはもう既に騙されているからです。嘘つきにおいて優れている人は、就活戦線においては圧倒的に有利です。

 実力で内定を得たのではないなら、入社後は厳しいのではないか、とも思うでしょう。しかしここが社会の恐ろしいところで、入社後に仕事が上手くできるかどうかは、ほとんど運によって決まるのです。いわゆるビギナーズラックと言われているものでして、このラッキーに上手く乗ってしまえば事はとんとん拍子に運ばれてゆきますが、運悪くそれが訪れなかったか、訪れたとしても乗り切れなかった場合は、次の機会に向けて転職活動を秘密裏に始めるのが賢明というものです。
 ですから、入社前の段階からバカ正直に自分の真実を見極めてもらおうとするのは無駄な努力でしかないのです。採用する側にしても、誰が活躍してくれるかなんて、実際に雇ってみなければ皆目わからないというのが正直なところでしょう。

 となれば、皆さんの関心は、じゃあどうしたら嘘つき上手になれるか、ということでしょう。

 残念ながらこれは才能の一言に尽きるとしか言いようがないのですが、全く鍛錬する方法がないかといえばそうでもありません。唯一にして最大の効果を得られる方法が実はあります。ただし、女性は男を騙すのがもともと上手い生き物ですので(というより男がバカなだけかもしれません)、就活対策として有効かは疑問の余地がありますが、男が女を騙すことに限っていえば、こんなに良質な実践訓練は他にないのです。

 誠実でピュアが絶大な支持を得ているピューリタニズム、清教徒主義な世の中ですから、こんなことを書いてしまっては、それこそ破門のおそれ、いや、最悪の場合、ギロチンか、もっと最悪の場合には火炙りの刑に処せられるかもしれません。

 そんなリスクを背負って私は言うのですが、なるほど「女を騙してヤリ逃げする」というこの一つの文章の持つ響きには、単に「人を傷つけるからダメ」以上のーー日常の振る舞いにおいて気をつけるべきこと以上の、なにかとてつもない悪な響きが含まれているように聞こえ、身の毛もよだつ嫌悪を引き起こすでしょう。これは刑法178条2項の準強制性交の構成要件たる「抗拒不能」に錯誤がもちろん含まれる訳ですが、問題は相手方との交際を女性が認識している場合、例外はあるにしても一般に性的自由が侵害されているという意識は皆無でしょうから、刑法には該当しないものの、もしこの交際が虚偽の上に成り立ってるものとしたら、性的自由が侵害されていないという認識が既に錯誤という訳ですから(虚偽と知っていたら同意しなかった、という風に)仮にこれを同条の構成要件に包摂するのは不当だとしても、非常に近接した関係にあることは間違いないのです。ということは、好きでもない女を(彼女はワンナイトが嫌だとして)、好きと言ってヤリ逃げすることは、日常に溢れた些細な悪に属するものですが、その足元には刑法との境界線がありまして、超えてはいないが、踏んでいるのです。これがあの、ただならぬ悪の響きの正体であると私は断言します。

 昔よりもずっとこの響きが共有されていることに違いないでしょうし、それが良い悪いかは一概に言えませんが、ひとたび突き詰めて考えてしまうと、実に難しい問題を孕んでいるのです。つまり、好きという気持ちがどの程度であれば、それは嘘ではないのか、という愛の形而上学、客観的な正解など存在しえない問いと、客観的な正解を要する刑罰による暴力とに、一種の親族関係が結ばれているかのような近しさを私たちは感じざるを得ないのです。もっと言ってしまえば、女を口説くとき、彼女は独身で彼氏もいないのに、男の頭に浮かぶのは鋭利な刃物、あるいは銃口なのです。ですから女性が積極的な態度を取るよう要請されてもいるのですが、現実には簡単なことではありませんし、本質的に無理難題なのかもしれません。

 以上が現代における恋愛の難しさであり、マッチングアプリが依然ハイリスクながら、よりハイリスクな現実から逃れて流行する根本的な要因、いわば水が高い所から低い所へ流れているのですが、もっと遡った根本的な問題は性犯罪の保護法益や構成要件、法解釈が実は極めて曖昧なまま何十年と特に意識されることもなくやり過ごされていたことが発覚してしまった点でして、たとえば保護すべき法益は性の決定権なのか、被害者の精神的ダメージなのか、それはつまり、性的自由とか、決定権とかが刑法によって保護されるべきと考えられたのは、とりもなおさず、それが侵害された被害者の精神的ダメージが多大であるという認識が念頭にあっはずなのに(立法当時の実際の考えは知りませんが、普通に考えて、もしそうでなかったら、そもそも刑法典に載らなかったでしょう)実際に焦点になるのは、権利侵害が客観的にあったかどうかであり、本当に守ろうとしていた被害者の精神的ダメージはどこへ行ってしまったのか?と首を捻らずを得ないのものだった訳です。

 要するに何が言いたいかといえば、性犯罪と精神的ダメージとは切っても切り離せないのであって、後者の視点からアプローチしてみれば、ごく常識的に、卑近な上の例でいえば、たいして好きでもない女を勘違いさせてヤリ逃げした場合、どうしたって、夜道で突然襲われることの恐怖や、錯誤の好意さえない男に泥酔のまま襲われることの屈辱に匹敵するそれらが女を襲うとは、とても考えられないということです。

 あくまでも日常の些細な悪であって、こうした悪について、法と道徳の間にしっかりと区別を設け、寛容な世の中であってほしいというのが私の願いなのでした。もちろん、錯誤によって体を許してしまった彼女には同情しますが、それは彼女が自らの力で乗り越えるべき心の傷であって、人間は他者の全員を、他者のすべてを救えないからこそ人間なのです。

( ´艸`)🎵🎶🎵<(_ _)>