【雑感】政治家への労い
安倍首相が辞任した。今日のツイッターでも、どこかの大学の左翼知識人が炎上している。
彼はおそらく、教養があるのだろう。そうした自分の知性が、少しも世に影響力を持ち得ない現状に対する怒りと焦燥に、まぁ要するに彼は駆られているのだけど、左翼とか右翼とかのイデオロギー的な立場の違いをいったん棚に上げて、ごく冷静に考えてみれば、政治家への労いが良いことか悪いことか、疑問に付す価値はあると思う。
安倍首相への労いは、皆んなが皆んな、まさか「保守派のためにありがとう」なんて風に思っているはずはないだろう。世間の認識としては、ごく単純に、「国民のためにありがとう」という一言に尽きるだろう。
小学生レベルの素朴な道徳観に基づけば、頑張った人をそんな風に労えないなんて、人としてどうかしてる、という風に、ますます左翼に対する風当たりは強くなる。
問題は、政治経済にこうした道徳を持ち込むことが良いか悪いかにある。
というのは、資本主義における政治経済は、というより、本質的な性格なのかもしれないが、功利主義的であることが不可避であって、つまり誰かを犠牲にしなければ社会が成り立たない。それは一国のリーダーが保守であれリベラルであれ、避けようのない傾向なのだ。船上から誰かを海の底へ突き落とさなければ、資本主義という船はたちまちに沈んでしまい、全滅するのだ。
コロナ禍だろうがなんだろうが、具体的、感覚的にその存在を認識できなくとも、政治的経済的判断の犠牲となる存在は理論上常に存在するのであり、このことを心に留めておくのが、資本主義下における個人が抱くべき倫理だというのが私の考えです
偽善や懐古主義のはびこるモルヒネ的現代社会の特質として厄介なのが、こうした犠牲をすっぽり覆い隠してしまうことであり、そのため絶えず意識することは容易でないけれども、この倫理を前提にした際には、本来、長らく政治判断に与した人を労おうなんて考えは、ただちには導出されてこないのだ。
ともかく私が憂いているのは、政治や経済の事柄における言説に関わる際に、慎ましさというもが失われていることにある。仮に、政治家を労うことが良しとしても、それと同時に人々は、彼の判断によって自己犠牲を強いられた存在を労うべきであるし、むしろそれこそが本来的な態度だけども、現状を見るかぎり、社会は付随的であるべきの前者一辺倒なのだから、やはり大事なことを見失っているのではないか、というのが私の認識です。
( ´艸`)🎵🎶🎵<(_ _)>