リンバス5-1~のやつ
エイハブ…てめぇ…愛がでけぇだろ…ってクソ考察
エイハブのエゴ(自我)
- エイハブは死者や古い仲間の自我を自分として受け入れている-
-他者の存在が自分にとって重要であり、一部として吸収している
-しかし、自我は一人本来一人分だけであるということを考える必要がある
EGO、という武器がlimbusなどの世界には存在する。
EGOとはそれ、その人の「人の自我の具現」である。
……こうなると、奇妙な矛盾が発生する
「一人分の自我に、エイハブの言動を見ていくと複数の自我が存在する」様なふるまいを見せている」のだということ
…である。
エイハブの、「EGO」
結論から。
あれは、すべてエイハブの「こう、あれなやつ」といいたくなるようなものだったのではないか。
…何を言いたいかというより、明確化しづらい「ぐわー」となってしまう何かがEGOの発現にかかわる以上、エイハブのそれが何かはわからないが、「こう、あれなやつ」は何か恐らく、あの瞬間にあったのだ。
…それをここでは、ひとまず未確定ながら愛と仮定する
というのも
(クィークェグは後に支配を脱し、イシュメールに幻像ながら
「頑張れ」の声かけ…つまり、自我は独自に独立している)
「エイハブのアレは完全に吸収し、消費するものではない」のだ。
では、逆にエイハブのアレは、何故何でいかなる何なのか
…アレは「エイハブの中の彼らなのだ」
ということ。
どういうことだよ
つまり、あれはエイハブが常自分に言い聞かせてきた自分への無念、遺志
幻像なのではないか。ということだ
突如揺らがないといけない原因、そんなものあそこにはないはずが、なぜ揺らいだのか?これは理由をイシュメールとしたい
つまり死者の応援、妄想それらを打ち砕くイシュメールの生存という事実は、皆に愛されるエイハブ船長という事実を叩き折りかけてしまったから
エイハブの中のイシュメールは死んでしまったから。
だから、苦悩は発生してしまった。というのがお終いの話である
つまり、彼女にとって、
世界とは、愛とは
大丈夫、皆死んでる
なのだ。
勝手に埋葬をしているのだ、心折れたクイークェグのように。
誰が愛していない、とは言わないが、それに不安なく進み、疑い続けるからこそ胸に秘めたイシュメールなら「大丈夫、皆生きてる」と。
それに対し、死者でなければ「愛」を確信できないのがエイハブなのではないか、というクソ考察でした