成田の記憶
Twitterに出てた成田警備宿舎の話。思い出すままに。
出動車(大型輸送バス)で二泊三日かけて成田まで。当時の運転担当ご苦労様でした。何せ今ほど高速道路も整備されてないから大変だったと思うよ、運転は。
画像はイラストや様から。
私の時代はまさにこの完装でした。あご紐を結ぶのにコツがいります。
管機在隊中の約3年間に数回出動したがB宿しか知らず、他の宿舎の経験なし。
劣悪極まる住環境、空港敷地内に急増された見てくれタコ部屋状態のバラック宿舎。工事現場の仮設事務所なみのプレハブ二階建て畳敷き、冷暖房無し。布団カバー無しの上下布団と枕一人一組、プライバシー皆無。
小隊ごとに雑魚寝。風呂シャワーなど無し。
仮設の洗面所と便所が外にあり。便所は異臭漂う汲み取り式、汲み取り業者が来ないのか、いつも山のように便が溜まり、金隠し(和式便所)の縁まで盛り上がった状態。
警備出動を終え、仮眠とるだけのところとはいえ、なんとも言えぬ宿舎。
楽しみと言えば、もつ煮の屋台が来るくらい。もつ煮を肴に缶ビールを煽り、床に就くだけの生活。
糧食と言えば、三食同じ弁当、警備最終日の昼にボンカレーが出てきて甚く感激したもの。
あと、副食としてペヤングソース焼きそばが良く付いていた。最初は食べているがそのうち飽きてきて皆、手を出さなくなっていた。
当時は北関東地区だけのペヤングが今では全国展開しているとはね。隔世の感あり。
警備については対象の極左との接触はなし。
田舎地方部隊は割り振られた拠点での立哨警戒警備、華やかな表舞台には闘争記念日当日、高速道をぶっ飛ばしてこられる警視庁機動隊の皆様。
一回高速道を来る警視庁機動隊の皆様を見た、驚いたね。
先頭の指揮官車(ランクル)の天井に前方監視員を乗車させていた。
時速80㌔以上のスピードが出ている車の天井にいくら金網等持つ者があるとはいえ、尋常な業務ではないよね。
ご苦労様な前方監視員。
闘争記念日等でも荒れたという話は聞かず。火炎瓶が何本も炸裂した話はありませんでした。
警備終了後は落花生の箱入りを土産に買っていた。
今では、千葉県産は色々な名称がついて高級品として売られているけどあの頃は、ただ、千葉の落花生としか書いてなかったような気がする。ここでも時代の流れを感じます。