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【連載したい】「40(シジュー)な初老ですみません」#2 創作大賞2023

望月ヒカリです。40歳、3児の母です。
このエッセイを書こうと思った経緯と第一話はこちらからどうぞ。


第二話は、2016年11月からスタートします。

「40(シジュー)な初老ですみません」


#2 人生のターニングポイント


2016年11月。当時はSNSなどで公表していませんでしたが、
私は2児の母になっていました。

子供がいない時と、1児の時とでも、生活や仕事の内容は変わりましたが、
2人育児の生活は、想像をはるかに超えるものがありました。

しかも、2人目は妊娠後期と産後に、色々と制約がある生活を強いられていたので、実はすごく大変でした。ドクターストップがかかったのも初。
子が生まれてからは、とにかく本人の体調管理をメインとしていました。

仕事を辞めることはしませんでしたが、当時の活動は限られた数のみ。
演奏業が基本でしたが、仕事は全て、実働収入のみでした。

言っても、私も産後1年未満の身体なので、あまり無理はできなかったですが
1人目の時のように「産後2ヶ月半でワンマンライブのサポートで復帰」
のようなことはできませんでした。

というか、これは誰を産んだとしてもお勧めしません、笑

当時、子供同伴で会場入りして、楽屋で見ててもらったんですが、
「第一部と第二部の間の休憩で授乳」という無茶をしたため、
第二部は、足ガックガクの、頭クラックラで挑むことに。
母乳は血液なんだな、を実感しました。

もう、こういうのはやめようと誓いました。

そんなわけで、2人目を産んだ年は、人生を考える時間が増えました。

今だから思いますが「そうでもしないとゆっくりしないでしょ、あなた」
という、必然的に設けられた時間だったのでしょう。
そんな事を言いつつ、この頃の日常の記憶は、ほとんどありません。笑

幸い、翌年は姉がいる保育園の、0歳児クラスに入園できましたが、
在園時間も思うようには行かず、ああ「これは働き方改革をせねば!」を
決定づけることになりました。

在宅で出来る仕事、、となったときに、それまでは知人の紹介や
単発で依頼を受けていた「作曲」を思いつきました。

と言っても、それは決して軽い気持ちではなく、ちゃんと人生を見直して
考え出したものでした。

私の最終学歴は、音楽の専門学校なんですが、
そこではシンガーソングライターコースに在籍をしていました。

いわゆる、「楽曲提供」をしたくて入学したので、
ボーカルの授業はありましたが、弾き語りがしたいとか、
自分がフロントに立ちたいという思いは、皆無でした。

コーラスは昔から大好きだったので、そういう意味での歌の授業は、
ものすごく楽しかったです。

鍵盤は副科でしたが、そこで出逢ったミュージシャンに一聴き惚れをし、
追いつけるようにと、無我夢中で練習をしました。
その甲斐あってか、一気にキーボーディストとしての活動も増えました。

もちろん、作詞作曲の授業も通常通りありましたし、
テストでは弾き語りをしたり、バンド編成にして歌ったりもしていました。

が、メインを取るのはすごく嫌でした、笑。
今でも、フロントには立ちたくないし、さりげなく目立つのが幸せだと思うタイプです。

バンド活動もしていたので、曲を書くことはやめていませんでしたが、
学生あるあるな「サポートを含めて10バンド掛け持ち」をやっていました。
バイトもしながら、授業も受けて、よくやっていたなと思います。

そうやってキーボードのサポートが増えるうちに、そちらの活動が増え、
キーボーディストとしてデビューもすることになり、、あれよあれよ、、
だったので、作詞作曲云々は、自然と機会も減っていきました。

趣味で曲を作ったり、ライブをしたりはありましたが、そのグループも、
それで食べていきたいわけではなかったので、自然消滅した形でした。

それから数年が経ち、作曲の仕事を、本腰入れてやろうと決意しました。


きっかけ自体は、第二子のことが大きいのは確かなのですが、
「もう一度、自分がやりたかった夢に向かおう」と思ったのも本心です。


これまでのように、演奏の依頼をコンスタントに頂いて、
翌年のスケジュールが埋まって、ありがたいなと思っていた生活が、
一旦ストップになった状態だからこそ、気がつけたことも沢山あります。


とはいえ、単発で受けていた経験はあったものの、
作曲をコンスタントに受けて、仕事にするとなったら、
どこか事務所に応募したりした方がいいのだろうか…?と思っていたら、
たまたま友人が、とあるコミュニティを紹介してくれました。


2016年10月末のことです。


そこは、事務所ではないんだけれども、いわゆるコンペ情報を頂けたり、
作家同士の交流ができるような場所でした。

恥ずかしながら、コンペのコの字も知らない状態でしたが、
このコミュニティに入ってからすぐに、作曲講座というのがある事も知りました。2週間後とか、そんなレベルだったと思います。

それが2016年11月。

あとで聞いたら、その講座自体は不定期で開催されるもので、
まさにラッキーが重なった状況でした。

自分の曲を添削してもらう、ということ自体は、専門卒業ぶりでしたが、
目から鱗なことが満載で、一気に「作曲がんばるぞ!」という気持ちで、
メラメラしました。この日の衝撃は、未だに覚えています。

その時、講師で来てくださっていた方には、今でも大変お世話になっていて、仕事においても、プライベートにおいても、尊敬しています。

書いていて思いましたが、私は、憧れとか尊敬できる存在のおかげで、
奮起するタイプのようです。そういう方と出会えてよかった。

ところで、2016年11月というのは、月2,3本のコンサート伴奏仕事があり
まさに秋&クリスマスシーズンのエンタメ充実期間だったのですが、
これに加えて、2児の母をしながら曲を月2,3〜週1ペースで書く、
というのが始まりまして、文字通り寝られない日々が始まりました。

体力には自信がある私でしたが、それでもさすがにキツイなと、弱音を吐いていたものでした。まだまだ第二子の授乳やお世話もあるけど、何をメインにしたらいいんだろう、、、と、よく考えていました。

子育てじゃないんかい、とツッコミが入りそうな気もしますが、
私は子供たちにもよく言っていますが、自分がいちばん幸せだと思うことに正直に生きる方が、結果win-winだと信じています。

そんなわけで「作曲での仕事ってコンペしかないのか?」と思いながらも、
コンペに出す曲と、自分の資料になるような曲を作り始めました。

疑問に思ったとしても、単純にまだ期間的に考えても修行の身だし、なにせブランクもあるし、手を止めても仕方ないし、自分ができる限りの多作をしよう!と思っていたら、転機が訪れました。

コンペに採用されたのです。夢かと思いました。

後から知りましたが、コンペを始めて半年で結果が出るのは、どうやら早い方だそうです。特にストックがあったわけでもないので、余計に。文章にした事実を話しているだけなので、全然自慢の気持ちなどはありませんが、そう聞こえてしまったらごめんなさい。

私の場合は、本当にラッキーだったんだと思います。

そんなわけで、2017年7月12日、寺嶋由芙さんのシングル
「わたしを旅行につれてって」で、私もメジャー作家の仲間入りを果たしました。

そしてその夜、のちに運命を変えることになる、Twitterを始めたのです。


その日をきっかけに、演奏と作曲の両方をやる、
二刀流音楽家としての活動がスタートしたし、
コンペに応募することがあったからこそ、「望月ヒカリ」も生まれました。

Twitterを始めたことで起こった、更なる転機の話は
また別の機会にするとして。

こうやって振り返ってみると、
全てのことには意味があるんだなぁを、実感するのでした。

というわけで、そんな昨日、7月12日で作曲家デビュー6周年を迎えました。
演奏業は2005年デビューなので、中堅と呼ばれる部類に入ってきたかも知れませんが、二刀流としては、まだまだフレッシュな気持ちでいたいです。

とはいえ、もっとしっかりしなきゃな、の気持ちが強いです。
子供の頃に思い描いていた40歳とは、かけ離れている、、、笑

そうは言っても記念日や誕生日は、否が応でも背筋がぴしっとするので、
いくつになっても大切にしていきたいなと思いました。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました!


望月ヒカリ

#創作大賞2023  #エッセイ部門

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