いかなる花の咲くやらん 第3章第1話 曽我の春
治承三年(1179年) 春 曽我
一万は八歳になっていた。
曽我の里にはまた梅の季節がやってきた。紅白の梅が満開でどこまでも続く。まるで遠くにそびえ立つ富士の麓まで薄紅の大海原が続いているようであった。 その美しい光景を一万は不思議な気持ちで眺めていた。
「この景色は以前に見たことがある。まだ父上がご存命で 母上と箱王と幸せに暮らしていた頃。そうだ 藤の花の妖精と踊った夢を見たあの時の景色だ。 あの時は薄紅色の大海原だと思っていたが あれは この梅の花だったのか。 あの頃は 毎日 藤の花の妖精の話ばかりするものだから、父上からよくからかわれたものだ。 昨年も見たはずなのに気が付かなかった。悲しみに心を閉ざしていたからか。 あの時のことを思い出したら 少し心が軽くなったようだ。藤の花の妖精に慰められたような気がする。どうかまた会えないものか 」
一万がしみじみとしていると弟の箱王が泣きながら駆け寄ってきた。兄に泣きながら抱きついてくる箱王に一体どうしたのだ。何があったのかと一万は優しく語りかけた。
「えーん、えーん」
「どうしたのだ。箱王。誰かに何かされたのか。お腹でも痛いのか」
「 わからない」
「 わからない?何か嫌なことがあったのだろう。誰かに何か言われたのか?」
ヒックヒックとしゃくりあげながら「兄上、仇持ちってなあに?」と聞く弟に驚いた一万は「 どうしてそのようなことを言うのだ ?」と尋ねた。
「今、お父上の所にお客様がいらしているの。子供も三人一緒だったから、遊ぼうと思ったの。そしたら一番大きい子が 僕を見て『やーい、 やーい、仇持ち』って 言ったから、他の子も同じように囃し立てて」
「何ということだ」
「ねえ、仇持ちって、なあに?『親の仇も打たないなんて 武士とは言えないぞ。弱虫毛虫』って言われたの 」
「親を誰かに殺されたとき立派な武士の子であったら、その仇を打たねばならない。それが武士の本懐、本当の親孝行というものだ」
「 でも僕達の父上の曽我祐信殿は元気でいらっしゃいます。母上は今も、弟と手毬で遊んでいらっしゃいました。僕は仇持ちではありません。何故、仇持ちと言われるのですか」
「 箱王、そなたももう五歳。本当の事を言っても良い年だな。私も当時五歳。今のそなたと同じ歳であった。 これから 話すことは我らの今後の生き方に大きくかかわってくる。何も知らずこのまま平穏に暮らすこともできる。それでも聞きたいか」
「 はい。箱王は五歳になりました。兄上のご存知のことを全てお聞かせください」
次回 第3章第2話 夕日に誓う決意 に続く
参考文献 小学館「曽我物語」新編日本古典文学全集53
第1話はこちら
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?