いかなる花の咲くやらん 第4章第4話 煩悩
箱王はぶるぶると震えた。「今、ここでこの祐経を殺してしまいたい。今までは本当に父を殺したのが祐経か確証はなかった。しかし、ここまではっきり自白されてそのままにしておけない。兄者、兄者、この箱王はどうした良いのですか。一人で仇を討つことは許されましょうか。権現様、神社の境内で刀を抜くことは 許されましょうか」
祐経は今言ったことを忘れたように 親切ごかしに「袴や馬にも困っているのだろう。これからは私がなんでも助けよう。旦那がいると思って頼ってくると良い。そうは言っても今は何も差し上げるものがない。せめてこれをお納めなさい」と言って、赤木の柄に白銀の小刀を箱王に渡した。鞘には波と花菱、小柄には梅の精巧な彫刻があった。箱王はその刀で一刀(ひとたち)と思ったが、祐経はその刀を片手で抑え、もう一方の手で、頭を軽くたたいた。仲間の元へ去っていく祐経を 箱王は見送るしかなかった。
物陰に隠れて、悔し涙を流す 箱王のもとへ 別当様がやってきた。
「すべて見ていました。神社の中で、人傷沙汰をおこしてはいけないと 思ったのですか。
あなたは本当に分別のある方ですね。
どうなさいますか。このまま出家なさいますか」
「こんなに心に憎しみを持った者が、出家できるのでしょうか」
「修行が終わって出家をすると言っても、その先も修行は続きます。修行を続ける中で憎しみや煩悩が消えていけばそれはそれで良いと思います。
一方で、本望である仇討ちを果たしたのち、晴れ晴れとした心持で、出家なさるのも良いと思います」
それから半年後、箱王は十七歳になった。
いよいよ、次の都での受戒の式に出家することが決まった。
(やはり、開けても暮れても祐経の事ばかりを考えてしまう。このまま僧になっても、学問、勤行の時にも、元服して 兄と共に仇を討つべきであったと後悔ばかりしてしまいそうだ。その煩悩はかえって罪業となるのではないか。頭を剃る前に、兄上に相談するのが良いであろう)
そして、箱王は四年間過ごした 箱根の山を下りる決心をした。
中秋の深夜、一人静かに神社を出て山道を行く箱王の足元を美しく光る満月が照らしていた。そんな箱王をそっと見守る影があった。
「箱王、ここでの修行もそなたの心をすくうことは出来なかったか。これから、そなたの進む道は修羅の道だ。せめて神のご加護があるように私にできることは祈ることだけだ。今夜は月明りがある。箱王のために一晩中、経を上げよう」
別当の読経する声が静かな箱根の山々にしみわたっていった。
次回 第4章第5話 月に導かれ に続く
参考文献 小学館「曽我物語」新編日本古典文学全集53
第1話はこちらから。
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