人狼ゲームでやっと「ループ」の意味がわかった話

3連休のうち2日、昼間はどこにも行かずに人狼ゲームをやった。やってしまった。

ADVゲーム「レイジング・ループ」をやり込んでしまったので、戒めとしてノートをしたためておく。

もともと評判が良いのをずっと前から知っていたのだけれど、自分はそんなに「人狼ゲーム」が好きじゃなかったというか、興味が持てなかったので放置していた。

けれども2018年6月に奈須きのこが紹介しているのを見て、揺らいでしまった。

以下はWikipediaの引用。

旅行者・房石陽明は、バイク旅行中に道に迷う。コンビニ店員の案内で集落への道を進むが、崖で転倒してしまう。そこに現れた芹沢千枝実の助けで藤良村(ふじよしむら)にある休水(やすみず)という集落に身を寄せるが、霧が発生して房石は謎の生物に殺されてしまう。しかし直後にはバイクで道に迷っているところに逆行していた。選択を変えてその場を生き延びた房石だったが、村の伝統であるおおかみ様をくくる為の「黄泉忌みの宴」に巻き込まれることになる。(Wiki)

主人公はループして何回も人狼ゲームを繰り返しながら、最良の結末を目指す。

立ちはだかるは人狼ゲームの舞台としてふさわしい、閉鎖的な集落。

くそみたいな伝説と伝承、信仰と慣習、そこに生きた村人の思惑が複雑に絡まり合う。

物語の1周目、ぼくは最初の人狼ゲームで絶望を味わう。何もできず、誰も救えず。だが次こそは。人狼ゲームを知らないぼくも、やり方はすっかり覚えた。切り札もある。救える人が出てくるはずだ。

そして2周目に突入、落胆する。
おのおのの「役割」は変わり、1周目に死をもって知りえた人狼の秘密は意味をなさない。
村人に敵はいない。だからこそ、立ちふさがる障壁が変わる。
姿なきカミと、民間信仰。ヒトを救うはずの宗教は、理不尽にヒトを殺してゆく。

コンチクショーとヤケクソの3周目。
不合理に与えられた自分の役割に、訳が分からず逡巡、驚嘆。
ヒトとして唯一選べる道は閉ざされ、畜生に落ちる。落ちる。落ちる。
奈須きのこいわく、「―――世界が 回転 する。」

そして気づく。そもそも人狼ゲームはヒトを救うものではなかったと。
人狼ゲームで自分の役割に一喜一憂し、勝ち負けを考えていた時点で、自分は村社会に飲み込まれ「オチて」いるのだと。どうかオチナカレ。

ゲームや小説、マンガなどで主題となる「ループもの」は、ジャンルとしてはミステリーだと思う。

物語の主人公は理不尽な殺人、人間の手では解決できないような出来事を、理論と推論をもって解明してゆく。一方でループという超常現象が起きている以上、物語においてある程度、「超常的」な事柄、存在は黙認される。おかしな話だ。

だがこれを「おかしくない」と思わせる言葉、状態、現象があると、『レイジングループ』をやっていて思った。

民間信仰や宗教だ。

特に民間信仰は、元をたどると自然崇拝と祖先崇拝にいきつく。祖先崇拝はやがて個人の祖先である「氏」、氏神崇拝と変わり、氏神崇拝は神道と混ざり土着化していった。

民間信仰とは、いくつもの伝説を練り混ぜ、折り曲げ、何世代にもわたって形を変えつつ伝わってきたもの。人々に崇め奉られ、やがて伝奇となり伝承へと変容する。

宗教や民間信仰における逸話は、その団体、その土地に住んでいる人にとって意味があるもの。だが部外者からみると、その内容はだいたい、奇妙キテレツ極まりない。

そんな世界観において、宗教、人間の力の及ばない超常的な力が働くのは当然なのではないか。

『ひぐらしのなく頃に』でも、「おやしろさま」という奇妙な民間信仰の文脈で、ループを繰り返す梨華という存在は黙認される。

ミステリーというジャンルにおいて、科学と理論で立証不可能なトリックは許されない。けれどトリックに直接関わらないループはアリなのだ。

ふははは。やっとわかったぞ。今までぼくは、ループものはミステリーのくせにループの仕組みが超常現象のままであることが許せなかった。

けれどこれでいいのだ。

ループはその物語を作り上げる「土台」そのものであり、登場人物たちの背景にある「民間信仰」と同じ。そこには外部からみる懐疑的な視線は必要ない。

民間信仰が外部からすると破茶滅茶で理解不能なのと同じ扱いで、ループも理論もすっとばしたわけがわからないもの。

そうミステリーの中でループというものの扱いはこれでよかったのだ。

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