京極夏彦の天才とは。
天才とは何か?
秀才とは違うのか?
自分は凡人なのか?
誰しも一度は考えた事があるのではないだろうか。
36歳独身住所不定無職(無気力に職務に取り組む)私は、間違いなく凡人である。
刹那的にミュージシャンというポジションにおいて、非凡な才能があるのではないか?もしかしたらメシが食えるのではないか?と、錯覚した事もなくはないが様々な原因が私にあり、それはだいぶ前からやはら錯覚であったと自認はできている。
さて、今回のタイトルに至った経緯。
地獄少女というアニメのワンシーンを見た。
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そこに京極夏彦的であるというコメントを見た。
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小説を読まないので京極夏彦に興味が湧く
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京極夏彦の出ているyoutubeをちらほら見たり、インタビューを検索した。
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すると、将棋小説を書いている橋本長道という方との対談を見つけて読む。
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そこに京極夏彦の考える天才の定義の一端が書かれていた。
という訳である。
自分の分で書くとそれこそ凡人が露呈するので、引用させて頂きます。
才能があるとかないとかいいますけど、才能がある人なんていないと思うんですね。逆にいえば誰にだって才能はあるということなんですが。資質は人それぞれでしょうから、向き不向きはあるんでしょうけど。で、天才というのは突出した成果を短時間で出せる人、という意味なんでしょうね。時間をかければ、おおかたのことは誰にでもできますから。たとえば直観的に完成形なりを把握できたとして、一定以上の技術さえあればすぐに形にできるジャンルの場合、天才と呼ばれる人が出やすいですね。将棋なんかもそうでしょう。でも小説の場合は書くのに時間がかかるでしょ。思いついたとおり書けてるかどうかもわからないし、書いている途中で変わってしまうという人もいる。しかも判断するのは読者だし、読んでもらうためには本にしてもらわなくちゃいけない。本にするためにはたくさん手続きが要る。評価に至るまでのプロセスも複雑で、評価自体も個々の主観的なものでしかないですね。一つだけ確実なのは、書き終えないとだめだということです。どんなうまくても途中でやめちゃいけない。だから、あえていうなら「おわり」がたくさん書ける人が天才じゃないですかね。
この会話の中で私が注目した部分。
「天才というのは突出した成果を短時間で出せる人」
これはとても簡潔でいてある程度に芯をついていると思う。
お笑い芸人のカズレーザーはこう言った。
世の中の98%は凡人だ。スティーブ・ジョブズが亡くなった後、appleの業績は下がるどころか上がっている。彼の代わりが効いてしまうのであれば殆どの人間の代わりがいるはずだしつまりは凡人である、と。
私はよく自問自答する。
何の為に生きているのか?
ここ何年かでその答えが定まった。
「なにも考えずにただ楽しく生きる」
お察しの通り、思考停止以外の何者でもない超短絡的なシナプスの壊死した−1000000点の答えだが行き着く所はそんなものではないかと度々思うのである。
この話を紐解こうとすると幸せの定義やら人間とは〜的なべき論を出す人達と不毛で無価値な議論をしなければならないので個人の価値観という事でそのまま棚にしまってほしい。
今だからこそ見つめ直すべきだ。
人の価値という無価値を。
人生の意味という無意味さを。
外山恒一や後藤輝樹のような人が選挙に名乗り出すのも必然なのだと。(これは言いすぎた)
世の中に絶望し、呆れ、全てが無意味で無価値だと思えたその時に本当に見えてくる物があるのかもしれないと私は思うのである。
天才とはそんな絶望やはたまたピュアな希望の先に現れる人の事をいうのかもしれない。
その頃には日本には天才は海外に移住してしまって
いないかもしれないが。