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目に見えるものは本当に正しいか? 科学の目的について

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「本質的には……」「この本質は……」という言葉を聞いたことや使ったことがあると思う。しかし、この「本質」について、ちゃんと説明できるだろうか? ちょっと調べてみても「本質を掴む思考法」的なハウツー的な記事はヒットするものの、そもそもの「本質とは何か?」についてちゃんと説明している文章は見当たらなかった。
 そこで、この記事では科学における「本質」の意味を解説したい。
 この記事では、本質の話からさらに展開して、科学に携わる者の多くが暗黙の前提としている「科学の目的」について書こうと思う。

目に見えるものは事実か?

 太陽を12時間ほど眺めてみよう。地平線から出てきて地平線に沈んでいくのが見えるはずだ。これを素直に解釈すると「太陽が地球の周りを回っている」(いわゆる「天動説」)となるだろう。しかし、「太陽が地球の周りを回っているのではなく、実は逆で、地球が太陽の周りを回っているのだ」(いわゆる「地動説」)と教えられたと思う。では、この目で確かに見えるあの回っている太陽は嘘なのか? 幻覚なのか? 
 「いや、太陽が回っているのは嘘というわけではない。捉え方を変えてみよう」というのがこの記事の趣旨である。先に結論を言ってしまうと、「現象としての事実」と、「本質としての事実」の2つが存在していて、「太陽が回っている」は前者で、「地球が回っている」は後者である。

補足)天動説というのは、かなり思い切った理論である。以下の記事を読みながら地動説と天動説について当時の人たちの気持ちになって考えてみてほしい。「本質としての事実」を明らかにすることが簡単ではないことがよくわかる。

現象と本質とは何か?

 まずは「現象」と「本質」の説明をしよう。
 現象というのは、人間の感覚器官によって直接捉えられる(注1)、不安定で変わりやすい面だ。
 本質というのは、現象の背後にある安定していて変わらない面だ(注2)。そして本質は、一貫した、統一的な見方を与える。

 地球と太陽以外の例を挙げよう。水の中に棒を入れてみる。そうすると、棒は水面のところで折れ曲がって見える。これは目の錯覚ではない。これは現象として知覚できる事実である。しかし、棒が水中にある時に実際に折れ曲がっているわけではない。本質としての事実は、棒は水中でもまっすぐである。

注1)「直接捉えられる」というのは実は難しい問題を孕んでいる。
 第一に時間の問題がある。恐竜絶滅の原因となった隕石衝突は、過去のことなので"知覚できない"。しかしこれは現象に属する。隕石衝突は「地球惑星科学の理論/モデル(本質)から推察された」現象である。
 第二に、人間の感覚器官の限界の問題がある。例えば、裸眼で見えるものは"知覚できる"。では、ルーペを通して見るのはどうか? 顕微鏡で見るのはどうか? このように考えると、科学技術の進歩によって人間が知覚できる現象の範囲は広がっていくといえる。例えば、赤外線カメラを使えば、暗闇でも生き物を知覚できる。
※ しかしここで「赤外線を見た」と言ってはいけない。「赤外線」と言っている時点でそれは本質に属する理論/モデルの考え方が入っている。

注2)「自然界で起きる出来事は全くデタラメに生起するわけではなく、何らかの秩序があり、同じような条件のもとでは、同じ現象がくりかえされるはずだ」という「自然の斉一性」を前提としている。

現象と本質の関係性

 本質は、なんらかの形態をとってかならず現象として表れる。そして、どんな現象も、なんらかの本質を表している。

 この世界は、本質はそのまま表れ出ない。まずは複雑な現象という形態で表れる。私たちが見るもの、聞くもの、触るもの、その全てはこの世界の現象という形態である。本質は背後で現象を支配している。すなわち、現象と本質は一致していない。
 仮に、現象と本質とがいつも一致していたとしたら、私たちが知覚するものが、そのままこの世界の本質だということになる。そうだとしたら、私たちはこの世界について苦労して考える必要などない。一致していないからこそ、考えたり、研究したりすることが必要になってくる。

 一方で、現象は本質が表れ出たものなので、現象には必ず本質のヒントが隠されている。

数学や物理というのは、神様のやっているチェスを横から眺めて、そこにどんなルールがあるのか、どんな美しい法則があるのかを探すことである。
-リチャード・P. ファイマン-

 加えて重要なポイントなのが、本質を捉えるときには、必ず抽象化が行われている、ということだ。
 もう一度本質の定義を振り返ろう。本質は、多様な形で何度も繰り返し表れる現象を、背後で支配しているものだ。このような性質上、本質は「生物は〜〜」とか「物質は〜〜」とか「熱は〜〜」といった抽象的な言葉で記述される。

これは具体と抽象の関係と同じだ。現象=個別具体で、本質=抽象である。

科学とはどういう営みか?

 すべての科学とは、「現象という形態で現れている事実」から、その背後にある「本質としての事実」を求める営みであるといえる。

 私たちは観察によって現象としての事実を知ることができる。しかし、それだけでは、個々の断片的な事実とか、ものの表面的な姿しか知りえない。
 そこから本質としての事実を知るためには、現象としての事実を手がかりに、思考を積み重ねていく必要がある。この一連の営みが科学である。
 科学の目的は、あらゆる現象の背後に、安定した変わらない本質(法則)を捉え、対象の原理や構造を捉えることだ(注3)。

 現象から本質を捉えるための方法が、私たちがサイエンスメソッド(科学的手法)と呼んでいる思考法である。
 以下の記事で触れた、定量化によって、物事を客観的に捉える手法もその一部だ。

 さらに科学は、捉えた本質から現象形態へ立ち戻って、本質がどうしてそういう現象となって現れるかを説明することができる
 別の言い方をすれば、多種多様な現象形態と本質との結びつきを明らかすることができる。これは、その本質の認識の正しさを点検することでもある(仮説の検証)。

 このことは、科学が実世界に技術として応用されることに繋がる。科学技術は、本質を捉えることにより、現象を人間の意図通りに操作するものだ(注4)。

 また、科学によって本質を捉えると、この世界の「なぜ?」という疑問に対して、(一定の捉えられた本質の範囲内で)答えを与えることができる。
 例えば、「どうして雲ができるの?」とか「風邪が他の人に移るのはなぜ?」という疑問に、「温められた水蒸気は周りより軽い気体であるため上昇する」「風邪の正体はウイルスで、ウイルスは細胞にとりついて増殖する」などの答えを与えてくれる。

 科学に携わる多くの人が暗黙の前提にしている「現象」と「本質」という世界の捉え方を明確にし、「科学の目的って何?」という素朴な疑問の1つの答えになったのではないだろうか。 

注3)本質のさらに後ろにもっと本質があることもある。例えば、物質の本質(最小単位)は原子であると思われていたが、さらに探求が進むと、電子や中性子、さらには素粒子という本質が捉えられるようになった。探究には終わりがない。何かを知覚した時、常にその背後の本質を探ろうとする営みが科学である。

注4)日本の科学教育は、科学の技術応用に偏っていて、現象から本質を捉えるような教育は少ない。すでに過去の人たちが見抜いた本質が与えられるので、それを用いて手っ取り早く技術応用することができるのは確かに良い。しかし、多様な現象と格闘しながら本質を抽出する能力は育たない。

参考文献

鯵坂真、梅林誠爾、有尾善繁(1987)『論理学―思考の法則と科学の方法』世界思想社 第4章「弁証法論理学」 9節「本質と現象」

戸田山和久(2005)『科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる』NHKブックス 第6章「科学的実在論 vs 反実在論」

補足

 現象と本質に関連して、実在論に関する面白いエピソードがあるので紹介しておく。

 実験の準備をしている科学者に、哲学者が何をしているのかと尋ねると、「ドラムに電子を吹きつけているんだよ」という答えが返ってきた。
 あんたはどうしてドラムに電子を吹きつけているなどと分かるんだい。あんたはなんだか訳の分からない装置の引き金を引いているだけじゃないか、と言ってみた。そうしたら、イライラした様子で物理学者は、「吹きつけることができるんだったら、電子はたしかに実在するのさ」と答えた。

戸田山和久(2005)『科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる』NHKブックス

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