理論は感覚経験を超える
「理論は、われわれ自身がつくり出したもの、われわれ自身の観念である。理論は、われわ れに強いられたものではなくて、われわれ自身がつくった思考の道具である。こういったこと は観念論者が明晰に見てとってきた。しかし、これらのわれわれの理論には実在との衝突をお こしうるものがある。そしてそのような衝突がおこるとき、われわれはある実在が存在してい ることを知るのである。つまり、われわれの観念が誤りうるという事実をわれわれに思い出さ れる何物かの存在を知るのである。そしてこれは実在論者が正しいということの理由なのであ る。 したがってわたくしは、《科学が実在に関する発見をなしうる》という本質主義の見解に賛 成であるし、さらに、新しい世界の発見ということに関しては、われわれの知性の方がわれわ れの感覚経験に対して勝利をおさめるという本質主義の見解にさえも賛成なのである。しかし わたくしはパルメニデスが犯した誤り――この世界において、色彩にあふれ、変化し、個別的 で、不確定で、記述しがたいもの一切に実在性を否定するという誤り――におちいってはいない。 わたくしは、科学が実在に関する発見をなしうると信じているので、ガリレイと同じく道具 主義には反対の立場をとる。われわれの発見が推測的であることをわたくしは認める。しかし このことは地理上の探検にさえもあてはまるのである。コロンブスが自分で発見したものに関 して行なった推測は事実誤りであった。しかし推測がもつこういった要素によって、かれらの 発見したものの実在性が希薄になったり意義が少なくなったりするのではない。 われわれは科学的予測に二種類のものを区別することができる。これは重要な区別である が、道具主義はこの区別をつけることができない。これは科学的発見と関連した区別である。 わたくしが念頭においている区別というのは、一方では日月食や雷雨のような、《すでに知ら れている種類の出来事》の予測と、他方では(物理学者が「新効果」と呼ぶ)《新しい種類の 出来事》の予測、たとえば、無線の電波や零点エネルギーを発見させたり、以前には自然界に は見出されなかった元素を人工的に作り出させたりしたような予測、との間の区別である。 道具主義が第一の種類の予測しか説明できないということは、わたくしには明らかなことに 思われる。つまり、理論が予測のための道具ならば、他の道具の場合と同じように理論の目的 もあらかじめ決定されたものでなければならないと仮定せざるをえない。第二の種類の予測 は、それを発見と見なさないかぎり十分に理解することはできないのである。 さきに述べた例や他の大部分の発見の場合でも、理論が「観察による」発見の結果であるよ りもむしろ、発見が理論に導かれたものである、というのがわたくしの信念である。というの は、観察自体が理論に導かれることが多いからである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第3章 知識に関する三つの見解,第6節 第3 の見解――推測、真理、実在,pp.187-189,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎 (訳),森博(訳))
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?