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伝統主義と批判的合理主義


「われわれは、社会生活における伝統の機能を、簡単に検討してきた。そこで見出した事柄 は、次に、伝統がどのようにして生じ、どのようにして伝えられ、どのようにして固定されて いくか――これらはすべて人間の行為の意図されざる結果なのだが――という問いに答えるのに、 役立つであろう。人々は、なぜ、自然的環境の法則を学ぼうと(し、それを他の人々に、しば しば神話の形で、教えようと)するのか。それだけでなく、なぜ、社会的環境の伝統をも、学 ぼうとするのか。その理由を、われわれは今や理解できる。人間(とくに未開人や子供)に は、なぜ、自分の生活において斉一的であるものや、斉一的になるものにしがみつく傾向があ るのか。その理由をも、われわれは今や理解できる。人間は神話にしがみつくし、みずからの 行為の斉一性にしがみつきがちである。その理由は、第一に、不規則性や変化を恐れ、した がって、不規則性や変化を起こすことを恐れるからである。第二に、みずからの行為が合理的 であること、つまり他人から見て予測のつくものであることを、他の人々に保証してやり、他 の人々にも同じように行動してほしいと望んでいるからである。このように人間には、伝統を 創造する傾向があるばかりでなく、注意深くそれに従い、他の人々にもそうするよう強く要求 することによって、その、手にした伝統を再確認するという傾向もある。これが、伝統的タ ブーが生じる有様であり、それが伝えられていく有様である。  これは、すべての伝統主義に特徴的な、極度に情緒的な不寛容さというものを、つまり、合 理主義者がつねに正当にも抵抗し続けてきた不寛容さを、部分的に、説明している。しかし、 この傾向の故に伝統そのものに攻撃を加えるようになった合理主義者は誤っていたということ が、今やわれわれにははっきり分かる。われわれは、次のように言ってもよいかもしれない。 合理主義者が本当に望んでいたことは、伝統主義者の不寛容さのかわりに新しい伝統――寛容の 伝統――を置くこと、より一般的に言えば、タブー化の態度のかわりに、現存の伝統を批判的に 考察し、利害得失を比較考量し、しかも、その伝統が確立された伝統であるという事実がもつ 利点をも忘れないようにする態度を置くこと、である。というのは、現存の伝統をよりよい伝統 で(あるいは、よりよい伝統であるとわれわれが信じるもので)置き換えるためには、結果と して現存の伝統を拒絶することになるにしても、われわれはつねに次の事実を意識していなけ ればならないからである。つまり、すべての社会批判やすべての社会的改良というものが、社 会的伝統の枠組に頼らざるをえないということ、この社会的伝統の批判がまた他の伝統に頼ら ざるをえないということである。これはちょうど、科学におけるすべての進歩が、科学理論の 枠組みの中で進行せざるをえず、この科学理論の批判は他の科学理論の光のもとで行なわれ る、というのと同じである。  伝統についてここで述べたことの多くは、制度についても述べることができる。なぜなら ば、伝統と制度は、大部分の点において驚くほど似ているからである。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第4章 合理的な伝統論に向けて,pp.214- 216,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎(訳),森博(訳)


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