歴史解釈とは何か
歴史は、歴史解釈のみが存在しうるのだが、各世代は彼ら自身の歴史解釈を形成する権利を持っているとともに、義務も負っている。自らの実践的な課題の理解と解決のために、歴史解釈がある。(カール・ポパー(1902-1994))
「要約しておこう。「実際に生じた通りの過去」の歴史は存在しえない。歴史解釈のみが存 在しうるのだが、それらのどれ一つとして最終的なものではなく、各世代は彼ら自身の歴史解 釈を形成する権利を持っているのである。しかしながら、各世代は彼ら自身の歴史解釈を形成 する権利を持っているのみならず、一種のそうする義務も持っている。なぜなら、実際、応答 されるべき緊急の必要が存在するからである。われわれは、われわれの諸困難事が過去とどの ように関わっているのかを知りたいのであり、また、われわれの主要な課題と感じられ、選択 されもした諸問題の解決に向かって、われわれが進歩していけるような道筋を見たいのであ る。このような欲求が、合理的手段と公正な手段とによって答えられない場合に、歴史信仰的 解釈を産み出すのである。この圧力に促されて、歴史信仰者は、「われわれの最も緊迫せる問 題としてわれわれは何を選ぶべきか、それらの問題はどのようにして生じたか、われわれはそ れらの問題をどんな方向に沿って解決するのか」という合理的な問題に替えて、「われわれは どちらの道を進んでいるのか、本質上、歴史がわれわれに演じるように決めた役割は何か」と いう非合理で外見上事実的な問題をたてるのである。 ところで、私は、歴史信仰者の、彼ら自身の方法で歴史を解釈する権利を拒否したが、私は 正当なのだろうか。私は、誰でもそのような権利を持っていると宣言したのではなかったか。 この問題に対する私の回答は、歴史信仰的解釈は奇妙な種類のものだ、というものである。必 要でもあり正当化されてもいる解釈や、われわれが採用せざるをえないあれこれの解釈は、私 が既に述べておいたように、探照燈に比較できる。われわれはそれをわれわれの過去に投げか け、その反射によって現在を照らし出そうと望む。これとは反対に、歴史信仰的解釈はわれわ れ自身に向けられる探照燈に比較されよう。それは、われわれの周囲の何物かを見ることを、 不可能ではないにせよ、困難にし、われわれの行動を麻痺させる。この隠喩を翻訳すれば、歴 史信仰者は、歴史の諸事実を選択し、整序しているのがわれわれであることを承認しないので あり、「歴史そのもの」或いは「人類の歴史」が、その固有の法則によって、われわれ自身、 われわれの諸問題、われわれの未来、あまつさえわれわれの観点までをも規定していると信じ ているのである。歴史解釈は、われわれが直面している実践的諸問題と実践的諸決定とから生 じる必要に答えるべきだ、ということを承認する代わりに、歴史信仰者は、われわれの歴史解 釈への欲求には、歴史の観想を通じてわれわれは人間の運命の秘密、本質を発見できるかもし れないという深遠な直感が表現されている、と信じているのである。歴史信仰は、人類が歩む べく運命づけられている道を見出そうと探索している。すなわち、歴史信仰は、(J・マクマ レイが呼ぶところの)歴史への導きの糸、あるいは歴史の意味を発見すべく探索中である。」
(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第2部 予言の大潮――ヘーゲル、 マルクスとその余波,第25章 歴史は意味を持っているか,第3節,pp.249-249,未来社 (1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))