道徳判断、倫理的決定
規範を事実の上に基礎づけることは不可能である。「人間の本性にかなう、本性を害する」も、一つの選択であり規範概念である。前提となる価値を選択すれば、我々が何をなすべきかは合理的な議論の対象となる。それでもなお、私が何をなすべきかは、完全に私に任されている。(カール・ポパー(1902-1994))
(1)人間の本性にかなう行為と、人間の本性を害する行為とは?
(a)我々によって可能なすべての行為は人間本性に基づくものである。不可能な行為であれば、もとより考慮外でよい。従って、意味のある問い方は次のとおりである。
(b)人間本性のうちで、どの要素に従って、それを発展させるべきであるのか。
(c)人間本性のうちで、どの側面を抑圧ないし制御すべきであるのか。
(d)すなわち、これは規範概念である。簡単な例で考えよう。美味しいものと、まずいもの。美味しいからといって身体に良いとは言えない。情動が、規範概念を直接定義するわけではない。そこで、健康に良い食べものとして再定義してみる。すると、経験と理性と他者との批判的な議論によって、真偽の区別ができる概念になる。しかし、この概念は我々が選択したものである。また、その食べ物が健康に良いものかどうかにかかわらず、我々はどの食べ物も食べることができるし、食べないこともできる。また、真偽の判断は区別はできても、判断の難しい対象もあるし、そもそも私は、健康に良いという基準では食べ物を選ばないかもしれない。
(2)我々は、いかに行為すべきか
(a)法規範
(b)慣習としての道徳規範
(c)宗教的信念
(d)医療的知識
(e)一般にあらゆる工学的知識
(f)科学も一定の規範に支えられている
(g)美的規範
(3)私はいかに行為すべきか
(a)道徳判断、倫理的決定という意味が、この意味だとすれば、仮に法規範に反することでも、私は自分の考えに従って、自分で行為を選択できる。
(b)人の決定を「裁くな」というのは、人道主義倫理の根本法則の一つである。
(c)たとえ善、悪という言葉を使ったとしても、善という言葉の意味が「私がなすべきこと」という意味を持たない限り、私のなすべきことは導出できない。
「(1)私の考えでは、われわれの責任を分け合うための何らかの論拠ないし理論を得たいと いう希望が、「科学的」倫理学の基本的動機の一つである。「科学的」倫理学は、その絶対的な不毛性の点で、社会現象の中でも最も驚くべきものの一つである。それは何を目指すのであ ろうか。われわれが何をなすべきかを教えること、すなわち科学的土台の上に規範法典を建設 し、われわれが困難な道徳的決定に直面した場合に法典の索引を見さえすればいいようにする ことを目指すのであろうか。これは明らかにばかげたことであろう。もしこんなことができる ものだとしても、それはすべての個人的責任、およびそれゆえにすべての倫理を破壊すること になる、という事実は全く別にしてもである。それともそれは道徳的判断、すなわち「善」と か「悪」という用語を含む判断の真偽の科学的認定規準を与えようとするのであろうか。だが 道徳的《判断》が絶対的に的はずれなものであることは明らかである。人々やその行為を裁く ことに興味をもつのは悪口屋だけである。「裁くな」というのは、われわれのうちのある者に とっては、人道主義倫理の根本法則の一つであるとともにまたあまりにも評価されることの少 ない法則であるように思われる(われわれは犯罪者が犯罪を繰り返すのを防ぐために、彼の武 器を奪い投獄しなければならないかもしれないが、あまりにも多くの道徳的判断をすること、 とくに道徳的義憤をすることは、常に偽善とパリサイ主義のしるしである)。こうして、道徳 的判断の倫理学は、的はずれであるばかりでなく、実際に不道徳なことである。道徳問題の最 も重要な点は、もちろん、われわれが知的予見をもって行為することができ、またわれわれが 自分の目標は何であるべきか、すなわちわれわれはいかに行為すべきかを自問することができ るという事実によるのである。 われわれがいかに行為すべきかという問題を扱ったほとんどすべての道徳哲学者たち (ひょっとするとカントは例外となるが)は、「人間本性」への言及(カントでさえ、人間理 性に言及するときにはやっていることだが)によってか、または「善」の本性への言及によっ て、それに答えようとしてきた。これらのうちで第一の道はどこへも通じない。なぜならば、 われわれによって可能なすべての行為は「人間本性」に基づくものであり、それゆえ倫理の問 題は、人間本性のうちでどの要素に私は従ってそれを発展させるべきであるのか、またどの側 面を抑圧ないし制御すべきであるのかと問うことでも設定できるだろうからである。だがこれ らのうちの第二の道もまた、どこへも通じない。というのは「善」の分析が「善とはこれこれ のものである」(ないし「これこれのものが善である」)のような文の形で与えられるとすれ ば、われわれは常に、それがどうしたのか、これが私に何の関わりがあるのか、と問わなけれ ばならないからである。「善」という言葉が倫理的な意味で、すなわち「私がなすべきもの」 を意味するために用いられるときにのみ、「Xは善である」という情報から、私はXをすべきだ という結論を導出することができよう。換言すれば、善という言葉がいやしくも何らかの倫理 的意義をもつべきであるとすれば、それは「私(ないしわれわれ)がなすべき(ないし促進す べき)もの」として定義されなければならない。だがもしそのように定義されるならば、その 意味のすべては定義句で尽くされ、あらゆる文脈においてこの句によって置き換えることがで きる、すなわち「善」という用語の導入は実質的にわれわれの問題に寄与しえないのであ る。」
(カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第5章 自 然と規約,註(18),pp.248-250,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠(訳))