実在とは何か
「「実在的(real)」とう語の一つの意味においては、これらのさまざまなレヴェルはすべ て同じように実在的であるけれども、より高次のより推測的なレヴェルのほうが――より推測的 であるという事実にもかかわらず――《より実在的な》レヴェルであると言ってもいいような、 別のもう一つの意味がこれに密接に関連している。理論によるとそのようなレヴェルのほうが より実在的(より安定的たらんとし、より永続的)であるというときの意味は、テーブルや樹 木や星のほうがその諸側面よりも実在的であるというときの意味と同じである。 しかし、理論のまさにこの推測的ないし仮説的な性格のゆえに、理論が記述する世界に実在 性を帰属させてはいけないのではないだろうか。(たとえばバークリーの「存在することは知 覚されることである」は狭量にすぎることがわかっているにしても)偽であることが明らかに なるかもしれない推測が記述する事態ではなくて、むしろ、《真なる言明が記述する事態のみ を「実在的」と呼ぶ》べきではないだろうか。こういった問いを提出することによって、道具 主義的見解の検討へ向かうことにしよう。道具主義的見解は、理論はたんなる道具であると主 張し、実在世界というような何らかのものが理論によって記述されるという見解を否定してい るのである。 わたくしは、事態を記述する言明が真であるとき、かつそのときにかぎり、その事態を「実 在的」と呼ぶべきであるとする見解(真理の古典的理論ないし対応説に含まれている見解)を 受けいれる。しかしここから、理論の不確実性すなわち理論の仮説的ないし推測的性格によっ て、実在的なものの記述という理論の暗黙の《主張》がともかくも減殺されてしまうという結 論をくだせば、それは重大な誤りであろう。なぜならば、いかなる言明であれ言明Sは、Sが真 であると主張する言明に等しいし、また、Sが推測であるということに関して、われわれは次 のことを忘れてはならないからである。まず第一に、推測であっても真である《かもしれ ず》、したがって、実在的な事態を記述している《かもしれない》ということ、第二に、もし その推測が偽であるならば、それは(それを否定した真なる言明が記述する)なんらかの実在 的な事態との衝突をおこすということである。さらに、われわれが〔実際に〕推測をテストし その反証に成功するならば、われわれは、ある実在的なもの――その推測との衝突を可能にした 何物か――の存在していたことがきわめて明瞭にわかるのである。 したがって反証は、われわれがいわば実在に触れた地点を示しているのである。そしてわれ われのもっとも新しい最良の理論というのはつねに、その分野で見出されたすべての反証〔事 例〕を、もっとも単純な仕方で――つまり(わたくしが『科学的発見の論理』31-46節で示した ように)もっともテスト可能な仕方で、という意味であるが――説明することによって統合しよ うと試みるものなのである。 明らかに、もしわれわれが理論のテストの仕方を知らないならば、理論によって記述される種類(あるいはレヴェル)のものがそもそも存在するのかと疑うことにもなろう。また、その 理論はテストできないと明確に知るようになれば、われわれの疑いは増大するだろう。われわ れはその理論がたんなる神話やおとぎ話ではないかと疑うかもしれない。《しかし、理論がテ スト可能ならば、それは、ある種の出来事が起こりえないということを含意し、したがって実 在について何らかのことを主張しているのである》。(この理由からわれわれは、理論が推測 的であるほど理論のテスト可能性の程度も高くなければならないと要求するのである。)した がっていずれにしても、テスト可能な推測は実在に関する推測であり、その不確実なあるいは 推測的な性格から導かれることは、その記述する実在に関するわれわれの知識が不確実あるい は推測的だということにすぎない。また、確実に知りうることのみが確実に実在的であるけれど も、確実に実在的であると知っていることのみが実在的だと考えるのは誤りである。われわれ は全知ではないし、われわれの誰も知らない多くのものが実在しているということは疑いはな い。したがって実に、(「存在することは知られることである」という形での)古いバーク リー的な誤りがいまなお道具主義の根底に横たわっているのである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第3章 知識に関する三つの見解,第6節 第3 の見解――推測、真理、実在,pp.185-187,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣壽郎 (訳),森博(訳)
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