思想の自由と真理
思想の自由および自由な討論は、目的そのものともいえる根本的な自由主義的価値だが、我々が真理に到達するためにも必要なものだ。真理は顕現しない。しかも手に入れるのは容易ではない。真理の探求には (a)自由な想像力と(b)試行錯誤(c)批判的討論を経由した偏見の漸次的発見が必要だからである。(カール・ポパー(1902-1994))
「思想の自由および自由な討論は、さらにこれ以上のいかなる正当化も実際に要しない根本 的な自由主義的価値である。それにもかかわらず、これらのものは真理の探求において演じる 役割の見地から実用主義的にも正当化できる。真理は顕現しない。しかも、手に入れるのは容 易ではない。真理の探求には、少なくとも、次のことどもが必要である。
(a)想像力
(b)試行錯誤
(c)(a)と(b)および批判的討論を経由してのわれわれの偏見の漸次的発見。 ギリシャ人に由来する西欧合理主義の伝統は、批判的議論の――もろもろの命題や理論を反駁 すべく試みることによって検査し試験する――伝統である。この批判的合理的方法は、証明の方 法、つまり真理を究極的に確定する方法と取り違えられてはならない。またそれは、常に合意 が得られることを保証する方法でもない。そうではなくて、この批判的合理的方法の価値は、 討論に参加した人たちが、討論することによってある程度まで自分たちの意見を変え、討論を終えて別れるときには前よりも賢明になっている、という事実にある。 討論は共通の言語をもち共通の基本的前提を受け入れている人びとのあいだでしか可能でな い、としばしばいわれる。このような主張は誤っているとわたくしは思う。必要なのはただ、 討論している相手から、かれが言おうとしていることを理解しようと心底から望むことを含め て、学びとろうとする心構えである。この心構えが本当にあれば、討論の相手たちの経歴や立 場などの背景が異なっていればいるほど、討論はいっそう実り多いであろう。だから、討論の 価値は、競合しあう見解の多様性に主としてかかっている。バベルの塔〔共通の言語〕がない とあらば、われわれはそれを工夫して作り出すべきである。自由主義者は意見の完全な一致を 望みはしない。かれが望むことはただ、もろもろの意見が互いに豊かになり、その結果として もろもろの考えが成長していくことである。誰にでも満足のいくように問題が解決される場合 でさえ、その問題を解決することにおいて、意見の分かれざるをえない多くの新しい問題が生 み出されるのである。これは、遺憾とされるべきことではない。 自由で合理的な討論は〔私事ではなく〕公の事柄であるけれども、世論は(どのようなもの であれ)このような討論から生み出されるのではない。世論は科学によって影響されることが ありうるし、また科学に判定を下すことがありうるけれども、世論は科学的討論の産物ではな い。 しかし、合理的な討論の伝統は、政治の分野に、討論による統治の伝統、およびそれと共に 異なった見解に耳を傾ける習慣、正義感の増大、そして妥協への気構え、を生み出す。 こうして、批判的討論の影響を受けて、また新しい問題の挑戦に応じて、変化し発展するも ろもろの伝統が、通常「世論」と呼ばれるものの多くにとってかわり、世論の果たすべきもの とみなされている諸機能を引き継ぐことを、われわれは期待するものである。」
(カール・ポパー(1902-1994),『推測と反駁』,第17章 世論と自由主義的原理,第4節 自由 な討論についての自由主義的理論,pp.648-649,法政大学出版局(1980),藤本隆志(訳),石垣 壽郎(訳),森博(訳))
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?