F1クラシック:ニキ・ラウダと1984年ポルトガルGP:運命を決めた一戦
オフシーズン企画として、過去の名レースを振り返りたいと思います。まず最初は1984年の運命のポルトガルGPです。当時、F1の放送もインターネットもなく、この結果を雑誌オートスポーツの速報で知ったのは、いい思い出です。今の人からすると信じられないでしょうね笑。それではお読みください。
1984年のF1シーズンは、ニキ・ラウダにとってキャリアの中でも最も厳しい戦いのひとつでした。彼にとって、このシーズンを締めくくる最後のレースであるポルトガルGPは、生涯でも特別な意味を持つものでした。ラウダ自身が「人生で最も重要なレース」として語るこの一戦は、彼がアラン・プロストをわずか0.5ポイント差で上回り、3度目のワールドチャンピオンに輝いた瞬間を刻んでいます。
予期せぬチームメイトとの戦い
1983年末、突然アラン・プロストはルノーとの契約を失い、マクラーレンに移籍することになりました。この移籍は多くの人々にとって予想外の出来事であり、ラウダもその一人でした。
1983年シーズン、プロストはタイトルこそ最終戦でピケに逆転され獲得できませんでしたが、それでも当時最速のドライバーのひとりと見られており、ルノーがシーズン終了後にいきなり、契約を解除するのは、かなりの驚きで、誰も予想できませんでした。
「1983年の終わりにプロストがルノーのシートを失った時、誰もそんなことを予想していなかった。ジョン・ワトソンはまだロン・デニス(マクラーレンのボス)との契約を結んでいなかったし、気がついたらあの小柄なフランス人が僕のチームメイトになっていた」とニキ・ラウダは当時を振り返ります。
当時、ワトソンが契約更新する前提でマクラーレンと交渉していたので、翌年もラウダのチームメイトはワトソンになると誰もが思っていました。しかし交渉が長期化する中、プロストが移籍市場に突然現れたことで、ロン・デニスはすぐさまプロストとの契約をまとめ上げました。これはジョン・ワトソンとのチームメイト関係に慣れていたラウダにとって、プロストとの新たなチーム内競争はこれまで以上に激しいものになることが容易に想像されました。
ワトソンは速いドライバーで優勝経験もありましたが、チャンピオンにはなれず、ニキ・ラウダにとっては対応が容易なドライバーでした。しかし当時のプロストは売り出し中の若手で、将来のチャンピオン候補と見なされており、実際1983年シーズンはネルソン・ピケと激しいタイトル争いを繰り広げ、破れはしたものの、当時最速のドライバーのひとりでした。
ラウダは振り返って「プロストはワトソンよりも大きな挑戦だった」と語っています。1984年シーズンは、お互いがレースでミスを犯しながらもポイントを競り合い、最後まで緊迫した争いが続きました。
最後のレース:ポルトガルGPの幕開け
ポルトガルGPに向かう中で、ラウダはプロストに対して3.5ポイントリードしていました(0.5という中途半端なポイントは、その年のモナコGPが雨の影響により、途中で中止になりハーフポイントレースになったからです。あの伝説のセナのモナコGPです)。
しかし、ラウダは予選では11番手という厳しい結果に終わり、プロストは2位という好位置を確保していました。ラウダは、このレースでプロストに次ぐ2位でフィニッシュしなければタイトルを獲得できないというプレッシャーに晒されていました。
当時は優勝9点、2位6点という仕組みでした。なのでプロストが優勝してもラウダが2位なら、ラウダがチャンピオン。ラウダが三位以下ならプロストがチャンピオンという状況でした。しかもこの年のマクラーレンは決勝レースでは滅法強く、プロストの優勝は堅いと考えられていました。
しかし驚くべきことに、ラウダはスタート前に自信を持っていました。彼は次のように語っています。
「予選はひどかった。プロストは2位、僕は11番手スタートだった。そして僕は、彼の後ろの2位でフィニッシュしなければタイトルは取れないと分かっていた。だけど、レース前に変な自信があって、ミスさえしなければ、例えば誰かにぶつかってウイングを壊したりしなければ、何とかなると感じていた」
レース開始後、ラウダはマシントラブルに見舞われ、序盤は渋滞の中で苦しんでいました。ターボが壊れ、エンジンパワーを十分に発揮できなかったため、前の車を抜くことができなかったのです。しかし、次第に状況は改善し、ラウダは次々と前方のマシンを追い抜いていきました。
最後の追い上げと不安
特に印象的だったのは、ナイジェル・マンセルを抜いた場面です。マンセルはブレーキの問題を抱えており、それがラウダの2位浮上に繋がりましたが、ラウダは「いずれにせよ彼を抜けていた」と自信を見せています。この時点で、ラウダは速さを取り戻し、ペースが上がり続けていました。
しかし、燃料消費に関する誤った情報がラウダを不安にさせました。ターボの故障により、正確な燃料消費量が把握できず(当時は今ほど正確に燃料消費量を計測できなかった)、残り数周は「車が止まるのではないか」という恐怖と戦っていました。最終的にはプロストに次ぐ2位でフィニッシュし、わずか0.5ポイント差というF1史上最少得点差でタイトルを獲得することができました。
0.5ポイント差での勝利
レース後、プロストは失望を隠せず、表彰台で涙を流しそうになるほど悔しさを感じていました。プロストは、自分が手中にしていたはずのタイトルを(しかも二年連続で)失ったと感じていたのです。ラウダは当時の状況を次のように語ります。
「周りはみんなプロストがチャンピオンになると思っていた。マルボロはアランのチャンピオンポスターを何千枚も作っていた」
「プロストは明らかに失望していた。彼は全てが自分の手の中にあると思っていたからだ。彼は表彰台でほとんど泣いていたよ」
しかし、ラウダはその若いチームメイトに優しく語りかけました。
「これがモーターレースだよ。君はよくやった。でも僕がちょっとだけ勝っただけだ。心配するな、来年は君がチャンピオンになるよ!」
そして、その言葉通り、プロストは翌年1985年に初のワールドチャンピオンとなりました。
闘い抜いたシーズンの意義
ラウダにとって、この1984年のシーズンは特に厳しいものでした。プロストとの熾烈な戦いはシーズンを通して続き、毎レースが重要な意味を持っていました。特に、ターボの故障や燃料の不安が重なる中でのポルトガルGPは、まさに「紙一重」の結果でした。このチャンピオン獲得によって、ラウダは自らのレーシングキャリアにおける新たな高みを築き上げ、F1史にその名を永遠に刻みました。
また、1984年のシーズンは、モータースポーツの残酷さと栄光が交錯する瞬間でもありました。プロストにとっては苦渋のシーズンとなりましたが、それが彼を成長させ、翌年のチャンピオンへの道を切り開くきっかけとなりました。二人の偉大なドライバーが、死力を尽くして戦ったことが、このシーズンをより一層特別なものにしています。
1984年のポルトガルGPは、単なるレース以上のものです。それは、ラウダとプロストという2人の偉大なドライバーが見せた、極限のプレッシャーの中での戦いであり、勝利への執念とライバルに対するリスペクトが織り交ざった瞬間でした。