他人のホロスコープを一方的に読むということ。
昨夜、ピーターバラカンさんのPodcastを古い順に聴いていたら、エベレスト単独・無酸素登頂を目指し、滑落事故のため2018/5/21に亡くなった栗城史多さんがゲストで出演されていました。
2010年1月なので、2回目のエベレスト登頂に挑戦する前ですね。
私はうっすらとしか知識がありませんでしたが、「こういう登山家もいるんだ!」というセンセーショナルな登場の仕方で、面白い(何よりカッコいい)人だなあと思っていました。
段々色モノ扱いされるようになり、何度目かの登頂失敗で「もう無理しなくても」と感じるようになり、凍傷で落ちてしまった両手指を再生治療しているというニュースを見た時は「そこまでして進まなければならないのか」と思いました。彼の訃報を聞いた時はショックでした。
登山家の野口健さんが「世間に大きく注目され、引くに引けない状況まで追い込まれていたのかもしれない。登山家は、無事に登り、生きて帰ってくるためには自分を客観しなければいけない。心の弱さが招いてしまった遭難だろうとも感じる。」と書かれていたのを読み、その通りだ、と思いました。
何が彼をそこまで追い立てたのだろう、と今回ホロスコープを出そうと思ったのですが。。。
付随する様々な情報。
現実を初めて知り驚いた。
私は、彼はマスコミのキャラクターになった事が災いし、押し出されるように亡くなったのだと思っていた。
全然違っていました。
彼の死後に出された登山実績検証本や、リアタイまとめサイトを今回、今になって初めて知りました。いずれも中身は正論で厳しかった。
登山ライター森山健一さんのブログ
栗城史多さんまとめサイト
出生時間を調べるために彼のホロスコープも検索しました。
訃報の後で書かれたホロスコープ記事が多く、彼の挑戦し続ける純粋性と自無垢な心が今ようやく山の死によって解放されたのだ、というものが多かったです。(出生時間は不明でした。)
私も前述の情報を知らなかったら、今回たぶん同じように書いていたと思います。
然し情報を知った今は同じ天体でも、知らない前とは逆の読み方をするでしょう。
他人のホロスコープを見るということ。
気持ちの在り方、動き方も、本人にしか解りません。
栗城さんのように著名で「検証される側」だから客観的事実が残っているけれど、それを含めても本当の所は本人にしか解らない。
ウィリアム・リリーが「ホロスコープはその人の骨格は解る。しかし痩せているか太っているかまでは、絶対に言い当てる事は出来ない」と話していたように、本人を目の前にしなければ見えない部分が必ず有ります。
以前Twitterで「著名人のホロスコープを勝手に見るのはどうなのか、倫理に反するのでは」という談義が盛り上がっていましたが、私は見ても良いと思う派です。
ただその対象者は興味本位では無く「個人的に心を強く動かされた人に限る」という決まりが自分の中にあります。相手の才能への愛と探究心が無ければ、見えてこない部分が有ると思うからです。
私は彼の事が好きだったし、亡くなった時は悲しかった。(と同時に安心した)
今回、彼の真実を知ったからといって軽蔑する気持ちは出てきません。どんな人でも例え犯罪者であっても、その立場を経験しなければ解らない重荷があると思います。
私が気になったのは、彼の表層感と膨張性の強さです。次回ホロスコープを読んで調べてみようと思います。
ここまで書いて一文字もホロスコープを読んでいない。。。ありがとうごめん。
それではまた〜。