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罰としての死。

こんにちは。
暑い。久しぶりに顔から滝汗の熱さです。

こんな暑くて頭が働かない時に、この話題。
「死刑」

人が人を裁き死を施行する。
昨夜はミャンマーの民主活動家の
死刑執行のニュース。

そして今日は秋葉原殺傷事件被疑者の
死刑執行のニュース。


民の世論が人を殺すように、
公の正しさも人を殺す。

人を助けようとした人が死刑になる
人を殺した人が死刑になる

死を迎えた人間は全て平等だ
逆に言えば平等になってしまうのだ

「犯罪をおかした人がもっと苦しめばいい」

という事ではなく、死で全てを片付けるような終わらせ方は何一つ解決へ導かない。遮断だ。

死んだことで罪も記憶も消えて
ゼロに戻れるのか。

民主活動家の方が死刑となった事で、その意志を継ぐ人達の思いは一層強固になり団結していくだろう。思いは殺すことが出来ない。

殺人を犯した被疑者が死刑となった事で、被害者の家族は望まない二つの死を背負う事になるのではないか。苦しみは死で償うことは出来ない。

死は何も解決しない。
誰のことも助けない。
思考を停止させるだけだ。

ただ思うだけで書いたのでここで終わり。

罰は誰も救わない。
絶対に。


私は子供の頃から「死にたい」が消えたことは一度もありません。「ニンゲン死ねば終わり」の御守りは、自死を経験した後も今も変わらず。「死ぬんだからどうでもいいや」と思えばなんとか平常運転を頑張れる。壮大な逃げの人生を謳歌し続けています。

とはいえ、これからの日本を考えれば、そんな安易に過ごしてもいられません。この老いるだけの命を次の世代のために少しでも役立てていかなければ、と思う日々です。

あとこれは私の失敗談だけど、参考になれば。

未遂した人やその流れで引きこもった人に「死ぬ気になれば何でも出来る」は禁句。「死ぬことは出来るけど他は何も出来ない」状態だから。

それではまた~
エリ

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