1931年9月18日夜、日本軍の謀略「柳条湖事件」勃発! 不拡大の政府方針に反し関東軍は暴走、新聞は速報合戦の沼に
関東軍とは、日本が日露戦争の結果、ロシアから得た南満州鉄道の警備と、遼東半島の大連などに駐屯する日本軍の総称です。現在の中国東北部、満州地方駐屯の日本軍といえば間違いありません。日本は朝鮮半島の併合に続いて、中国への進出を図っており、第一次世界大戦のどさくさにまぎれて中国を日本の属国とするかのような「21か条要求」を突きつけて世界から避難されるなどしながら、遼東半島の租借権と南満州鉄道の経営権などの期間延長に成功。それを防備するという名目で中国側が防衛するというのをはねのけて、初めて中国大陸に置くことに成功したのが関東軍です。
さて、日本政府や関東軍は当初、満州地方を押さえていた軍閥張作霖を支援していましたが、蒋介石の北伐の勢いで支えられないと見限り、関東軍は満州に後退してきた張作霖を爆殺して、その混乱のうちに満州を制圧する計画を立てます。1928(昭和3)年6月4日、関東軍高級参謀河本大作大佐の計画通り、後の満蒙開拓推進論者、東宮鉄男大尉によって爆殺には成功しますが、側近が張作霖の死を隠してしまったため、謀略には失敗します。天皇は軍部と首相に怒りを示すものの、真相の公表や厳しい処分をしない方針を決めてしまいました。これがまず第一の失敗でした。そして新聞も厳しい追及をせず、隠蔽を手伝ったのが第二の失敗でした。
張作霖の息子、張学良は跡を継ぎ、父を殺した日本に対して激しい敵意を持ちます。南満州鉄道に並行する鉄道の敷設、大連港に代わる新しい港を葫蘆島に(ここは太平洋戦争敗戦後、満州開拓民の多くが帰国のために使うことになる)建設して経済的に対抗してきます。こうした状況下、関東軍は再び謀略を計画します。今度は前回の失敗に学び、同じ自作自演でも、迅速に軍事行動を起こすこととしています。1931(昭和6)年9月18日午後十時半ごろ、関東軍参謀の板垣征四郎と石原莞爾による計画で柳条湖事件が実行されます。奉天駅から約7・5キロの柳条湖で満鉄の線路を爆破し、それを合図にそこからわずか500mの張学良の部隊の兵営「北大営」を攻撃、占領します。
ここで関東軍は、爆破と同時に中国軍の仕業と決めつけて行動。そして19日朝には司令部を遼東半島の旅順から奉天に移動させるため、満鉄爆破と同時に準備してあった奉天城攻撃の大砲を使って城内を占領します。事件を知った政府は「不拡大方針」を伝えますが、関東軍は次々と「邦人保護」を名目に戦線を広げていきます。その過程で、朝鮮駐屯軍が天皇の許可を得ずに中国へ越境侵入して増援する事態も発生しています。通常ならとんでもないことですが政府は「出てしまったものは仕方がない」と追認して臨時軍事費を決定するなど、ちぐはぐ。これが第三の失敗です。
そして新聞各社は軍事行動に目を取られ、その速報合戦に陥ります。情報を取るためには軍に対して疑問の目を向けるわけにはいきません。現地からは矢継ぎ早の軍の行動をいかに早く伝えるか、に力を注ぐことになります。
その結果、なぜ兵営から500mという、一番怪しまれるような場所で爆破を行うのか、爆破といっても直後に列車が通過できる程度のわずかな損傷だったのはなぜか、そもそも中国軍の仕業と判断したのは誰でどんな理由からかー。こうした、まず真っ先に疑問に浮かぶことを新聞社は報道せず、国民はただ、日本軍快進撃の「関東軍発表」を喜んでいたのです。最終的に、天皇も追認し、勝手に軍を動かしたことも何のおとがめもなしになりました。これが最終的な失敗でした。
こうした朝鮮駐屯軍がいかなる理由であろうと、正式な天皇の命令無しに他国へ越境するということは、一線部隊が宣戦布告をするのに等しいほどの行為であり、少なくとも条約で決められた人数以上の軍隊を送り込むことに、疑問を持った現地人もいなければ、新聞社も勢いに同調するだけでした。
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満州事変勃発前後の政界や軍の動きについては、「西園寺公と政局 第2巻」や「木戸幸一日記 上巻」が一級の資料として残されています。
事前に天皇まで情報が伝わり、画策を止めさせるよう行動に入っていたことが分かりますが、結局止められず、その後の内閣も矢面に立って不拡大を断固進めるという気概にかけていた様子が具体的なやりとりで残されています。
国内的には伏せられたが、対外的には明らかになっている張作霖爆殺事件のこともあるので、外国からみればまたやったかと思われるだけであるとし、爆殺事件時の参謀をしっかり処罰しなかったことを悔やむ記述もあります。後悔先に立たず。
関東軍が中央の命令に服せず、天皇の言葉も側近の入れ知恵として憤慨しているなどとあり、完全に関東軍に日本全体が引きずられているのが明らかです。そして、木戸は9月23日、記者懇談会に出席し軍の説明を聞きますが、爆破事件の詳細が分からないことに「誠に奇怪至極」と不信感を持ち、対外的にも問題と受け止めています。
このように、満州事変は兆候をつかむものの阻止できず、マスコミも軍に引きずられて世論も同時に軍指示となったことが影響していったのは間違いないでしょう。肝心なところで、正確な情報を掘り起こし、伝えることを、政府もできず、マスコミもできなかった。
実は、満州事変はラジオの初の臨時ニュースとして伝えられました。新聞各社には、ラジオとの競争も意識して、その強みである深い取材ではなく、速報に傾いたところがミスリードを誘うことになったといっても過言ではないでしょう。また、当時のマスコミが庶民より政界や財界の方を向いて情報を取ることに力を入れていた点も、大局を見れなかった遠因ではないでしょうか。
いかに冷静な情報を得るか。盲目的に権力者に追随することがどんな事態を引き起こすか。柳条湖事件は、多くの示唆を与えてくれます。以下のような良書をご覧ください。そして満州事変と満州国建国が国際連盟脱退につながり、日本は「脱亜入欧」の帝国主義陣営から勝手な行動をとる方向に向いていき、孤立。アジアの盟主をいまさらきどってみたものの、信頼皆無の中で自滅していったといえるでしょう。
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平頂山事件は、日本の裁判で事件の事実認定がなされています。そしてよく話題になる「遺体」が当時、崖を爆破して埋めたためそのまま残されている点でも、動かしようのない侵略の汚点となった事件です。日本の満州統治の実際を学べる良書で、一読をお勧めします。