戦前の右横書きは「1行1文字の縦書き」という俗説を完全否定する資料を紹介
戦前の日本で、文字を書く場合、縦書きの場合は右から左へ書くというのは例外なく定着していたのですが、横書きとなるとどうか。戦前の街の看板も本も広告も、どれも右横書き、左横書き、バラバラでした。
これに対し、右横書きは「1行1文字の縦書き」という俗説がまことしやかに流れています。縦書きは右から左だからという発想からでしょう。そこで、戦前の資料で検証してみました。この説を覆すには、右横書きで一連の文章が2行以上にわたって書かれている実例を見つけることが必要です。
なお、今回の記事は、号外研究家・小林宗之さまのご示唆を参考にさせて頂きました。この場で御礼申し上げます。
まず、数学や理科系のものは数式等の関係上、左横書きだったようです。下写真は1939(昭和14)年8月発行の「算術講義録」。中を見ると、現代と同じ左横書きです。
一方、こちらは1934(昭和9)年3月5日、大阪朝日新聞社発行の「皇国の護り」。表題は右横書きになっています。
中も見てみると、説明文も表題も右横書きになっている例を発見しました。ただ、これは説明文が1行なので、これでは「1行1文字の縦書き」の反証になりません。
さらに探すと、ありました! 写真の表題下に、説明文が右横書きで2行以上にわたって書かれていました。
そしてこちら。日中戦争中、汪精衛を首班とする日本の傀儡政権が南京に設けられた1940(昭和15)年3月30日以降に作られたとみられる絵はがきです。こちらは表題に続き、本文が3行にわたって右横書きで書かれています。
以上のように、右横書きは決して「1行1文字の縦書き」ではなく、横方向に意識して書かれていたと分かります。看板類ほど多くはありませんが、こうして文章を右横書きで何行にもわたって書いていた実物がある以上、「1行1文字の縦書き」説は、後付けの俗説と言って良いのではないでしょうか。
そして、以前にも触れましたが、横書きが右横書きと左横書きの混在であったので、文部省は国語審議会に難しい仮名遣いの改善と合わせて横書きについてもどうするか答申し、1942(昭和17)年7月17日の審議会総会で、横書きは美術や統計など特殊なものを除いて、現在と同じ「左書き」とすることにしました。
ここで「左書き」とした点に注意が必要です。横書きの分類で「左書き」に対するのは「右書き」です。つまり、国語審議会では右横書きを「1行1文字の縦書き」ではなく、「右横書き」と認識していたことを示しているのです。もし「1行1文字の縦書き」であるならば、それは縦書きの1文字を認めるかどうかという論議でなければならなかったはずです。そうした点からも、「1行1文字の縦書き説」は論拠に乏しいといえます。
一方、この決定は閣議決定に至らず、最終的に左横書きに統一されるのは敗戦後になります。このため、それまでは相変わらず右横書きと左横書きが混在して使われる状態が続きます。こちら、国語審議会が結論を出した後の、1943(昭和18)年6月1日発行の「国民防空」です。表題は右横書きです。そして広告ページを見てみますと、こちらは右横書き、左横書きの混在です。
本文はほぼすべて右からの縦書きでしたが、一部、一コマ漫画の文は横書きになっていて、それは左横書きになっていました。本全体では、横書きに右も左も混在していたということになります。このように、横書きの方向は統一されないまま、敗戦を迎えます。このため左横書きは占領軍の押し付けと誤解する人もいるようですが、日本人自身が、左横書きでいこうということを決めていたのが、正式に採用されたというだけなのです。
そして、右横書きは「1行1文字の縦書き」という説は、右からは縦書きという定着したルールをあてはめた発想でしょうが、少ないながらも、2行、3行にまたがる右横書きの実例が存在することから、1文字説は論拠を失ったと言えるでしょう。右からは縦書きと決まっていたというならば、1行2文字、1行3文字という方法を取っていくはずですが、そうはなっていない以上、間違いと言わざるをえません。こうした解釈も、やはり実例から判断することが大切です。あらためて「1行1文字の縦書き」は根拠がないことを強調しておきます。
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