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火薬にも窮していた末期の日本軍のせいで発生した戦後のとんでもない爆発事故

 大日本帝国の降伏調印が終わって20日ばかりの1945(昭和20)年9月21日、川中島村(現・長野市)の堤防上に放置してあった米軍の機雷が爆発、被害家屋1000戸、負傷十数人という、とんでもない事故が発生しました。信濃毎日新聞は、9月22日の朝刊で詳しく報じています。

「保管の米機雷が爆発」「爆風2㌔」といった見出しが。

 記事によりますと「21日午前11時半ごろ、更級郡川中島村字四ツ屋の集落に近い権現松地籍の犀川堤防上に積んであった長野師管区保管の米国製機雷60本のうち、6本(300—500㌔)が爆発、その破片と爆風は四ツ屋の集落をはじめ周囲2㌔の犀川を中心として川中島駅西通り、共和村(現・長野市)小松原犀口の両地区と対岸の上水内郡安茂里村(同)小市区一帯にわたり、家屋倒壊1戸、半壊3戸を出し、約1000戸に及ぶ民家の戸、障子、雨戸、窓ガラスを吹き飛ばした」とあります。
 また「現場付近の水田、桑畑、野菜、甘藷、リンゴ畑など約6町歩は丸裸となり、収穫皆無のありさまである」と、ただでも食糧危機の中、さらに追い打ちをかけています。

上が四ツ屋集落の写真、下が全壊家屋の写真

 米軍は戦争末期、日本各地の港湾や海峡にB29から機雷をまいて、日本を封鎖する作戦を展開していました。それがなぜ海なし県の長野に、米軍の機雷があったのか。「爆発した機雷は今春来、B29が新潟県各地の陸上に投下した不発弾で、長野師管区が貨車3両で運び同地点に集積保管中のもので、信管は既に取りはづしてあり、一応危険がないものとみられていたものである」と。そして長野県は救済に動くと共に、今回の被害は戦闘行為による戦災被害として取り扱うことにしたとしています。

 海上にまき損ねて地上に落ちた機雷を回収した、ということは分かりました。では信管もないのになぜ爆発したか。長野師管区からはすぐ現場に急行して現地を確認、罹災者を見舞ったうえで「人騒がせをして済まない、爆発したのは新潟から持ってきた磁気機雷6個で機雷の火薬が手榴弾の火薬として使えるかどうか取り出した際、火薬が散らばったのであろう。そこで誰かがタバコを吸ったのではないかと思われる。この火薬は鍋で溶かして詰め込んだもので火に強いもので、自然発火するようなことはない。自然発火するものなら暑い夏のうちに爆発するはずである」。
 敗戦間近、国内ではあらゆる物資が不足していて、これは機雷封鎖もおおいに影響していました。兵器の不足とて同じで、火薬も不足して綿を緊急に回収していたほどですから、使えるものならと期待していたのでしょう。

戦後でもあり、非常に低姿勢な雰囲気

 そして、残る50個はもう片付けて爆破処分すると説明し「被害者には誠に申し訳なく、建築木材を配給し、罹災者には毛布を贈るつもりだ」とし、農作物被害の補償にも言及。低姿勢に徹し誠意を見せています。これに対し、川中島村の村長は「物騒な物を村内へ持ち込む際にも軍方面から何の話もなかったので、火薬を抜いた殻とばかり思って別に照会もせずにいた」と、戦中は何の説明もなされていなかったことが明らかで、戦前戦後の態度が対称的です。

補償もすぐに対応すると
あやうく死者もでるところだった様子

 これら長野県内の動きはわずかペラ2ページの新聞の2ページ目にまとめて入っていて、1面は国内、国際の動きを報じています。そして、軍閥やこれに代わる官僚を排し、本当に軍国主義からの転換を図るという政治の姿勢を世界に示すことが大事と指摘が出ています。

軍国主義修正の第一歩として示すには、軍閥に代わる官僚を排せと。

 この爆発事故は、寄らしむべし知らしむべしの一つの結果のように見えます。軍の抑圧からやっと抜けたという思いが、戦後の改革の力になったともいえるのではないでしょうか。

2024年6月20日記


 

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