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日本海海戦で「Z旗」を命令で掲げたのは、長野県の方でした
1904(明治37)ー1905(明治38)年にかけて行われた日露戦争で、最後の山場となったのが日本海海戦でした。この1905年5月27日から28日に行われた日本海海戦で、日本軍はロシアのバルチック艦隊を一方的に撃破しています。この日、戦闘開始直前の午後2時前に掲げられたのが「Z旗」で「皇国の興廃この一戦にあり 各員一層奮励努力せよ」と鼓舞する意味がありました。
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上写真の左上に上がっているのがZ旗です。こちらは1938(昭和13)年5月につくられた複製品です。この東郷司令長官ら幕僚が立っている床下の部屋が各種の信号旗を入れておく場所で、指示を受けてすぐ掲げるようになっていました。下写真は、現在横須賀に保管されている「三笠」の艦橋下の部屋で、棚に各種の信号旗を収納していあるのがわかります。
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さて、このZ旗をマストに掲げる信号兵だったのが、長野県須坂町(現・須坂市)出身の一等兵曹瀧澤甚左衛門さんでした。既に退役して地元で小間物店を営業していた瀧澤さんは、日本海海戦30周年に当たる1935(昭和10)年、地元の教育会や青年会の要望を受けてZ旗を寄贈し、信号旗を掲揚した時間に上高井郡内の各町村で一斉に掲げるなどの催しを行うことになったと、1935年5月19日の信濃毎日新聞が伝えました。
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瀧澤さんは1972(昭和47)年10月に91歳で亡くなられるまで、三笠保存会の活動などにも従事していたということですが、実は先ほどの絵に、瀧澤さんが描かれているとみられるのです。瀧澤さん自身は、艦橋の上にいるメガホンを持った水兵が自分であると周囲に話していたということですが、「記念館『三笠』」パンフレットによりますと、伝令一等信号兵、三浦忠さんと説明されています。
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確かに、メガホンと手旗も持っていて、常にここにいる担当のようであり、こまめに信号旗を上げ下げする水兵ではないようです。そこでもう一度、よく絵を見ますと、Z旗の下に背を向けた水兵の姿が見えます。
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作者の東城誠太郎氏は、ちょうど艦橋の下の信号旗を操る場所に水兵を描くことで、Z旗が上がっていく場面であることを演出したのでしょう。とすると、こちらが瀧澤さんであり、後ろ姿で小さな絵ではありますが、画家が意思を持って重要な存在として、しっかり描き込んだものと推測できます。
訃報を伝える信濃毎日新聞の記事によりますと、戦後は雑貨商を営む静かな生活をしていましたが、日本海海戦のことは常に胸中にあったらしく、長男の談話で「ことあるごとに『皇国の興廃…』が話に出ました。特に毎年、5月27日(かつての海軍記念日)になると、この話で持ち切りでした」ということです。瀧澤さんは日本が世界から孤立する前の、まだ帝国主義が幅を利かした時代の戦争の渦中にあって、良い思い出を残せた幸運な方だったと思えます。
三笠保存会の活動に力を入れ、参事もしていたということで、周囲も艦橋の水兵は瀧澤さんとは違っていると思っても、あえて口に出すことはなかったでしょう。また、水兵の存在が、この戦艦を支えている全乗組員を象徴しているとすれば、それもまた間違いとはいえないでしょう。
一方、日本は日露戦争勝利で朝鮮の支配権を確立し、南満州鉄道の経営などの利権、遼東半島の関東州への軍の拠点を設けるなど、中国大陸に向かって進出していく足がかりを得ます。白人の植民地となっているアジアの人たちに一時的な希望を広げますが、日本の立場はあくまで「脱亜入欧」であり、アジアの帝国主義国であり、残念ながら、独立を目指す人たちを失望させることになります。
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本日のnoteは、長野県出身の軍人を取り上げました。長野県は海がありませんが、海軍にも陸軍にも、ターニングポイントで戦争に関わっている軍人が何人もいます。時々、そうした前線に出た人たちを通じて、歴史を振り返ることもやっていきたいと思っています。
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