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肉弾三勇士を称える1932年の大騒ぎー当時を今に伝える菓子型で90年前の雰囲気をお伝えしようと…頑張りました…。

 中国大陸の遼東半島や南満州鉄道に駐屯していた日本陸軍の関東軍が、1931(昭和6)年9月18日、謀略の盧溝橋事件を引き起こし満州事変が発生。関東軍は「邦人保護の必要最小限の出動」を繰り返して中国東北部の遼寧省、吉林省、黒竜江省を占領します。そして、これに熱河省を加え、日本の言うなりに動く、もっと正確に言えば関東軍司令官の言うなりになってソ連の防波堤として役立つ「満州国」建国に突き進んでいました。
 しかし、当時は既に不戦条約があり、中国の主権と領土を侵害しないとした九か国条約もありました。中国側が国際連盟に訴えていたこともあり、世界の関心を逸らして建国するため、関東軍は1932(昭和7)年1月18日、上海で中国人を買収、日本人僧侶を襲撃させる謀略事件を起こし、28日に上海事変に発展。中国軍の戦意は旺盛で現地の海軍陸戦隊だけでは対応できず、急遽、陸軍が上海派遣軍を送り込み、2月20日から25日にかけて、総攻撃を仕掛けます。こうした展開の中、肉弾三勇士の「軍国美談」が生まれます。
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 2月21日、日本軍は上海郊外の村・廟巷鎮を攻撃しますが、高さ3mの鉄条網を張り巡らして機関銃で応戦する中国軍に悩まされ、翌日の総攻撃までに鉄条網を破壊するよう、工兵第18大隊に指示が出されます。この第2中隊に所属していた北川丞、江下武二、作江伊之助の各一等兵は、20キロの爆薬を青竹で固定した破壊筒を3人で抱え、導火線に火を着けたまま突進して鉄条網に突っ込み、破壊筒とともに自爆した、とされました。さらに3人の爆死を見た馬田軍曹が敵陣に手榴弾を投げ込むと、中国軍は逃げ出したというのが当時伝えられたあらましです。
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 ただ、同じ部隊で先行した班でも戦死者が出ていたほか、3人に続いて同じように導火線に火を着けたまま破壊筒を投げ込んだ1班は生還していましたが、それらの事実は伝えられることなく「爆弾三勇士」「肉弾三勇士」として2月24日の新聞から大々的な報道が展開され、ラジオドラマ、映画、演劇、小説はもちろん、三勇士の歌を当時の朝日、毎日新聞社がそれぞれ競って募集し、遺族を招待するなどして、盛んに盛り上げます。これを好機にと「三勇士まげ」という女性の髪形、「爆弾チョコレート」「肉弾キャラメル」「三勇士せんべい」「肉弾三勇士料理」といったものまで登場しますが、それを不謹慎だと言わないほど、この「軍国美談」に庶民が飛びついたのでした。
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 今回入手した、兵士の人形焼きの型は、4人でしたので、最初は三勇士と違うのかと思いましたが、背部に「木下」「作江」「江下」そして「馬田」とありました。

人形焼き型を応用した兵士の焼き型
正面の4人。いずれも破壊筒を手にしています
右側の3人が三勇士、左の「馬田」とあるのが手榴弾を投げた軍曹と判明(創られた戦争美談・増子保志より)

 さて、貴重な当時の「三勇士焼き」とでも銘打たれたかもしれない焼き型ですが、せっかくですので、使ってみます。人形焼きといっても、以前たい焼きを自作したことがあったので、それを応用すれば何とかなると、自家製あん、薄力粉と重曹の種という、シンプルなもので挑戦しました。

用意した種
あんは事前に形をある程度整えて待機
種、あん、その上に種、と重ねますが、緩い感じが…
案の定、もれまくっています(´;ω;`)
何とか焼きましたが、この惨状(´;ω;`)

 最終的に奥さんも挑戦してくれましたが、3回やってもうまくいきません。浅草の人形焼き職人のようにはとうてい及びません。でも、いちおう形のましなものを並べてみました。

左が馬田軍曹、右3人が三勇士
作江、江下両名は一つの破壊筒を運んでいる雰囲気に並べられます

 3人が破壊筒を持つようにすると、このサイズでは話題の馬田軍曹を入れることができず、一人は立った形にしたのでしょうか。いずれにしても、状況より商売優先。

笑っているような顔は、どんな思いで整形したのでしょうか。

 また機会を見て、今度は種を改良して臨みたいと思いました。一方、できはどうにもなりませんでしたが、91年前の日本の浮かれた雰囲気、少しは伝わりましたでしょうか。
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 事実にできる限り近づくという新聞の本分は、実は満州事変の速報合戦から崩れていました。本来なら厳しく処断されるべき朝鮮軍の中国への越境を批判しなかったことはもちろん、陸軍の流す情報を垂れ流し、競って前線や銃後の美談を報道していました。肉弾三勇士も、その延長にあり、そして満州事変以来の戦争のセンセーショナルな報道、美談報道に麻痺した人々だったからこそ、受け入れられたのが、この「肉弾三勇士焼き(仮称)」だったのかもしれません。こうなると、もう戦争はブレーキが利きません。このお菓子作りの記事を書くにあたって、複数の資料をあらためて見て、この金型がよく残ってくれた、人々の熱狂を伝えてくれた、と思わずにはいられません。

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