薬きょう回収は自衛隊の専売特許ではなく、大日本帝国陸軍も行っていました
さまざまな収集品の中には、長野県松本市にあった歩兵第50連隊関係の除隊記念アルバムなど、軍隊の様子を伝える写真も多くあります。その中から、1930(昭和5)年ごろの演習写真を、モノクロ写真から自動色付けしてみました。
市街地での演習風景ですが、兵士のすぐそばに市民が固まって見ています。けっこう、オープンにしてやっていたのですね。規制線のロープなども見当たりません。兵士や見物人の服装から、冬場に入ろうとしている時期でしょうか。色付けで、なんとなく動きがよく見える感じです。
十一年式軽機関銃を中心とした、仮想敵への射撃場面です。左から2番目の兵士が右手に持っているのは、わっかに目の細かい網袋を付けたもののようです。袋付近に煙が出ていることから、ちょうど軽機関銃の射撃をした直後の薬きょうを、この道具で受けているようです。
水田の土手に三脚架を据え、三年式重機関銃を装備した部隊の写真です。手前の兵士が弾丸30発を並べて固定した「保弾板」箱の差込口を取り、箱を持ったまま差し込んで支えた状態で、まさにこれから射撃しようという場面。重機関銃のすぐ向こうに見える兵士は、やはり薬きょう受けらしいものを持っています。半円形に見えるものがそれです。
さらに奥には、もう一台の重機関銃が見えます。ついでに、一番手前の兵士が帽子に付けている偽装用のバンドらしきものもあまり見ないように思えます。このバンドに草木を挟んで偽装したのでしょう。
こちらが元写真です。色付け写真の方が臨場感が出るほか、材質によって色の付き方が変わるので、薬きょう受けらしいものは色付け写真のほうがはっきりしています。
上写真とほぼ同じ場面で、重機関銃を逆方向から撮影した写真です。左から2番目の兵士が、重機関銃が打ち空薬きょうを吐き出す口のあたりに、わっかに布袋を付けたようなものを持って構えているのがはっきりします。
薬きょう受けといえば自衛隊になってからと思っていましたが、戦前の日本陸軍も、市街地、野外問わず、機関銃だけは演習の薬きょうを回収していたようです。薬きょうは真鍮製で大事な金属ですから、貴重な資源を無駄にしないということだったのでしょう。また、演習地のあちこちに薬きょうの山を作るのは迷惑という発想もあったかもしれません。
それに昭和5年ごろといえば、大恐慌の影響もあって、陸軍の予算も苦しく、再生利用は大事なことだったのかもしれません。演習の写真から、そんな世相も浮かんでくるようです。
※WEB上でモノクロ写真をカラー写真のように加工できる、ニューラルネットワークによる自動色付けをしただけで、ほかに手を加えていません。早稲田大学の飯塚里志さま、 シモセラ・エドガーさま、石川博さま、関係各位に熱く御礼いたします。公開方法については、首都大学東京准教授(2018年当時)の渡邉英徳さまにご示唆をいただきました。ありがとうございました。
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