表現できないということ
今僕は、文章を書いて考えたことや感じたことを表現している。その相手は、自分でもあるし他人でもある。表現というのは、思考でも感情でも考察でもなんでも、内側にあるものを外側へと出すことである。その相手は、過去の自分、未来の自分、過去の他人、未来の他人と、誰にでもなりうる。
表現するということは、いろんな点でメリットがある。第一に、自分の内側に何があったのかを知ることができ、わからなさやモヤモヤとした感覚から解放される。さらにそうすることで、わからなさに起因していた恐怖や不安から解放される。表現することは、自分の精神状態にとって良い。表現は精神の安定をもたらす。
第二に、表現することで自分以外の人の内側を代弁し、その人のモヤモヤやわからなさ、そしてそれに起因していた恐怖や不安を解放することができる。毎回ではないが、第一のメリットが、そっくりそのまま他人のためにもなることがある。
表現が目的だとすれば、その手段は多岐にわたる。あるいは、無限にある。言葉や歌はもちろん、仕事やスポーツ、料理など、一見「表現活動」とは思えないような行為も、人によっては表現になる。
どんな行為も表現になりうるということは、しかし、ある人が何をやってもその人の内側をうまく表現できるということを意味しない。人によってうまくいく表現手法は異なる。つまり、内面を吐露し不安から解放される手段は、人によって異なる。文章を書くことで不安から解放される人にとって、スポーツが何の救済にもならないことはあり得る。ダンスを通して不安から解放される人にとって、歌を歌うことが全く助けにならないことはあり得る。人によって、適した手段とそうでない手段は異なる。
その一方で、ある表現手段が自分の内面の整理と安定とをもたらすために、その手段において卓越している、人より優れている必要はない。たとえば、僕は文章を書いて内面を表現しているが、優れたエッセイストでもなければ小説家でもない。もしかしたら、文章を書くのは実はめちゃくちゃ下手で、仕事とか別のことに時間を割いたほうが、社会的な評価はより上がるかもしれない。それでもなお、僕は文章を書く方が自己表現としては自分に向いていると思っているので、おそらく今後もしばらくは色々と書き続ける。演技が自己表現として最も自分に合っている人が優れた役者である必要はなく、写真撮影が自己表現として最も自分に合っている人が必ずしも世界的に評価の高い写真家である必要はない。表現手段の適切さと表現のうまさとは、本質的には無関係なはずである。
とはいえ、自分の内面をうまく形にできる程度には、自分が納得できる程度には、表現手段において精通していないといけない。いくらある表現手段ーーたとえば文章を書くーーが、自分の精神を落ち着けるからといって、あまりに主観的かつ無秩序な仕方は避けなければならない。整理されていない自己表現は、単なる暴走や妄言、破壊と何ら変わらない。それを避けるためには、自分が納得できる程度の鍛錬と習熟したスキルが不可欠である。
自分が納得できる程度の鍛錬とスキルが必要なため、最も適した自己表現の手段は、初めからいきなり見つけられるわけではない。いかなる表現手段も努力や練習が必要とするのであり、それゆえ、自分が納得できる手段を見つけるためには、忍耐と時間が欠かせない。どれほどの時間や鍛錬が必要かについて、一般論を与えることはできない。
必要なのは「自分が納得できる程度」の習熟であるため、人に聞いたりものを調べたりしても、せいぜい参考になる程度である。ある表現手段が自分に適しているかどうかは、救いがないことに、その表現手段に自分が納得しているか否かによってしか分かり得ないのである。そして、自分が納得しているか否かは、自分と向き合うことでしか知り得ない。
自分と向き合うとは、おそらく、過去の生き方や境遇を真摯に理解し、未来の生き方や夢を真摯に考えることである。この際、真摯さが欠けていれば、自分を誤魔化し偽りの「納得」を得ることはできるかもしれないが、それはとても不安定なものになるだろう。「俺はこの仕事に出会って人生が変わった、やりがいを遂に見つけたぜ、一生をこれに捧げるぜ」みたいなことを軽はずみに言ってしまう人が、1ヶ月後に別のことに取り組み始め、「やっぱ俺はこれしかないな、この前のはなんか違ったわ」みたいなことを平気でできるのは、自分の過去と未来への向き合い方が不十分だからだと思う。移り変わりの激しい人は、そういう性格だからというのもあるが、自分への真摯さが欠けていると思う。
真摯に自分と向き合うこと、そして表現手段の鍛錬を積むこと。この二つによって、初めて納得のいく自己表現を手に入れることができるが、両者は別々に、段階的に行えるようなものでもないと思う。
第一に、完全な自己理解→適した自己表現の発見。これは不可能だと。なぜなら、完全な自己理解を得るためには、適した自己表現手段を獲得している必要があるからだ。僕が文章を書くことができなければ、僕についての自己理解を得ることができないように。
第二に、適した自己表現の発見→完全な自己理解。これも不可能だろう。なぜなら、自己表現は「自己」を表現するものである以上、完璧ではないにしろ、ある程度の自己理解を前提とするからである。
このように、自己理解と自己表現は、段階的に行えるものではない。両者は密接につながっており、同時に進行していくようなものである。
自己表現ができないことは、自分についてのわからなさや、それに由来する苦悩をもたらす。さらに、適した表現手段を手に入れるためには、時間が必要である。そのため、自己表現ができないことによる苦悩の解決には、時間がかかる。
僕個人としては、いろんな表現活動を小さな頃から試してきた。レッスンに通っていたピアノや、授業で行ったさまざまな工作、演劇や歌、サッカーや水泳などのスポーツ、いろんなバイト。どれも、表現手段としては自分に向いていなかったのだと思う。たとえば、サークルでやっていた歌や演技は、練習しても全く上手くなっている感じがしなくて、負のスパイラルに陥っている感覚があった。
自己表現と自己理解が密接に結びついているのだとすると、表現手段がない時の自分は、適切な自己理解も獲得していなかったのだと思う。演技が上手くできなかったと上で述べたが、演技は特に自分がどういう時に何を感じるかへの理解が問われる。そのため、自己理解が足りていない人がいくら打ち込んでも、どこかズレた演技しかできないのは当然だろう。
今はどうか。自己理解も表現も、それなりにできていると思う。いつまた崩壊するかはわからないけど、それまでは安定した自己を使って、人が表現手段を見つける手助けをできたら嬉しい。
よろしければぜひ