仲間に出会うということー元料理人Tさんの脳卒中ストーリー
料理人を襲った脳卒中
私がボランティアとして通っている脳卒中中途障害者作業所の、会長 Tさんは、40代で脳出血を経験し、以来失語症と重度の右半身麻痺を持っている。
ボランティアに通い始めた当初、私は彼が利き手ではない左手をうまく使って、5本のお香スティックをテープで1束にまとめるという、両手が使える私でも難しい作業をしていた。
彼を見ていると、工夫とはまさにこのことだと毎回思わされる。
30年以上前、Tさんは料理学校を卒業し、料理人として東十条の中華料理屋さんで長く働いていた。
当時一緒に暮らしていた父親と母親が仕事で家を出たある日、彼は脳卒中を起こした。
脳卒中の結果、彼には失語症と重度の半身麻痺が残った。それはまだTさんが40代のときだった。
病院での最初の数ヶ月は言葉を話すことができず、「あー」とか「うー」と言って意思表示ができる程度だった。
東京の病院で数ヶ月過ごしたTさんは、山梨の温泉病院に転院することになった。
仲間に出会うということ
今のTさんは、話すのがゆっくりだったり時々言葉が出てくるのに時間がかかるときはあるが、コミュニケーションは問題なくとることができる。
Tさんと2人でインドカレー屋さんでランチをしていた私は、なぜ出血が起きた当初と比べて、ここまで失語症の症状が良くなったのかを尋ねてみた。
「んー、わかんね」と、チーズナンを頬張りながら彼はおどけるように言った。
しかし私は温泉病院での日々の話を聞くうちに、彼を突き動かしたものが分かったような気がした。
それは、「同じ境遇に置かれている人と出会うこと」ではないだろうか。
当時の温泉病院では、Tさんのように重度の失語症を抱える人が沢山いた。彼はその中でも同じような症状を持つ人と知り合うことができた。
現在東十条に住んでいるというその知人も、「あー」や「うー」などの言葉を使って会話ができる程度だった。
それでも彼らはお互いにコミュニケーションを取り合い続けることで、お互いが言いたいことが段々分かるようになってきた。そうやって、お互いの思いを語り合っていたのだ。
Tさんはリハビリを続け、他の失語症の患者さんと知り合っていくなかで、彼の症状はどんどん回復に向かっていった。
温泉病院で1年4ヶ月を過ごした後、Tさんは東京の実家に戻った。
前回紹介したひろしさんは東京に戻った後、自力でまた言葉が話せるようにリハビリを繰り返したが、今回のTさんのように仲間の存在に無意識に助けられていたパターンもある。
人間は困難に直面した時、1人ではなく、”仲間とともに”立ち向かうことができるのだ。
彼が作業所にきてからもう15年が経つ。その作業所がTさんにとってどういう存在なのかを聞いてみると、「行くと、やることがあるから。体を動かさないとダメになっちゃう」と答えた。
そんな彼は、6月に開催される役所の出展に向けて、今日も黙々と作業をこなしている。