阡陌陟記(せんぱくしょうき)読み合わせ

阡陌陟記は昭和55年12月に川澄勲氏が書き下ろした日蓮仏法の新しい解説書です✨

阡陌陟記(せんぱくしょうき)読み合わせ

阡陌陟記は昭和55年12月に川澄勲氏が書き下ろした日蓮仏法の新しい解説書です✨

記事一覧

五百塵点劫と五百塵点劫の当初

 五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)とは過去遠々(かこおんのん)より未来永々(みらいようよう)に続いてゆく無限の時を指す。無始無終の時のことであり、寿量品(じゅ…

本尊・本仏

 正宗要義(しょうしゅうようぎ)における本尊観・本仏観、即ち宇宙混沌(うちゅうこんとん)の時、その大霊(たいれい)である本法を悟った自受用報身(じじゅゆうほうし…

六巻抄の大綱

 寛師は第一三重秘伝抄(だいいちさんじゅうひでんしょう)の冒頭にまず開目抄の文底秘沈の文を挙げ、これを六巻抄の総題とし、この文の底を詮ずる事によって、日蓮大聖人…

六巻抄と文段抄 

安国論及び観心本尊抄等(かんじんほんぞんしょうとう)の文段抄と六巻抄とは寛師法門の極意である。従来この文段抄は唯(ただ)単(たん)に御書の注釈書として扱われてい…

明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る

宗祖(しゅうそ)は開目抄(かいもくしょう)に「日蓮といゐし者は去年(こぞ)九月十二日子丑の時に頸(くび)はねられぬ。此は魂魄佐渡(こんぱくさど)の国に至りて云云…

止観の七にいわく〜

止観の七にいわく「昔、ぎょう洛(らく)の禅師(禅宗の達磨たち)はその名が世の中に響きわたり、住する時は、四方から仰ぎ尊ばれ、去る時は別れを惜んで阡陌の群をなしてい…

続き

「阡陌の二字は御書(ごしょ)にないといい、次上の語は日本語にはないという。それらの語が見付かるまで開目抄(かいもくしょう)や本尊抄(ほんぞんしょう)を読んでみる…

阡陌陟記

阡陌陟記には続編があり、仏道雑記(ぶつどうぞうき)・大石寺法門と日蓮正宗伝統法義・大石寺法門と続くのであるが、「阡陌」に関する記述がある。 「阡陌(せんぱく)と…

阡陌陟記の序

序(じょ)  この小録(しょうろく)を名付(なづ)けて阡陌陟記(せんぱくしょうき)とする。東西南北(とうざいなんぼく)わたりあるきと訓(よ)むのであるが、実(じつ)は四維(しゆ…

五百塵点劫と五百塵点劫の当初

 五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)とは過去遠々(かこおんのん)より未来永々(みらいようよう)に続いてゆく無限の時を指す。無始無終の時のことであり、寿量品(じゅりょうほん)に説かれる処、これを迹仏(しゃくぶつ)の寿命という、所謂(いわゆる)流転に属する時である。これに対して当初(そのかみ)はこの迹仏の寿命を受持する事によって凡俗(ぼんぞく)の己心の一念に納めたもので、一日一日を積みかさねた時間では

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本尊・本仏

 正宗要義(しょうしゅうようぎ)における本尊観・本仏観、即ち宇宙混沌(うちゅうこんとん)の時、その大霊(たいれい)である本法を悟った自受用報身(じじゅゆうほうしん)が、鎌倉時代に生まれた日蓮であるというような事は、少なくとも六巻抄の中にはその片鱗(へんりん)すら見当らない。当家の云う本法とは、釈尊の因行果徳(いんぎょうかとく)の二法を自然(じねん)に具足(ぐそく)した一言摂尽(いちごんしょうじん)

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六巻抄の大綱

 寛師は第一三重秘伝抄(だいいちさんじゅうひでんしょう)の冒頭にまず開目抄の文底秘沈の文を挙げ、これを六巻抄の総題とし、この文の底を詮ずる事によって、日蓮大聖人及び戒壇の本尊の中に於ける師に当る部分を闡明されている。以下全て己心の一念三千の上に於いて論ぜられていることを銘記することが肝要である。
 当家に於いて本門事の戒壇という場合、己心の上の仏国土に建立されるべき戒壇である。この意味で従来使用し

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六巻抄と文段抄 

安国論及び観心本尊抄等(かんじんほんぞんしょうとう)の文段抄と六巻抄とは寛師法門の極意である。従来この文段抄は唯(ただ)単(たん)に御書の注釈書として扱われていた様であるが、それにしてはいかにも量が少なすぎる。結論を言えば、文段抄は決して単なる御書の注釈書というようなものではない。寛師の一つの構想のもとにかかれた法門書である。
 六巻抄については初めから法門書として著作されているので取りくむ上にお

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明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る

宗祖(しゅうそ)は開目抄(かいもくしょう)に「日蓮といゐし者は去年(こぞ)九月十二日子丑の時に頸(くび)はねられぬ。此は魂魄佐渡(こんぱくさど)の国に至りて云云(うんぬん)」と、御自身の事を仰せである。これを以(もっ)て当家では宗祖の発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)とする。然(しか)るに龍之口法難(たつのくちほうなん)を指(さ)して宗祖が発迹顕本したとするのは何(いず)れの文証(もんしょう)に依(よ

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止観の七にいわく〜

止観の七にいわく「昔、ぎょう洛(らく)の禅師(禅宗の達磨たち)はその名が世の中に響きわたり、住する時は、四方から仰ぎ尊ばれ、去る時は別れを惜んで阡陌の群をなしていたが、なんの利益があったのだろうか。禅師(ぜんじ)の臨終を 見てみな後悔したと

続き

「阡陌の二字は御書(ごしょ)にないといい、次上の語は日本語にはないという。それらの語が見付かるまで開目抄(かいもくしょう)や本尊抄(ほんぞんしょう)を読んでみるとよい。ないというのは読んでいない何よりの証拠である。御書も読まないで御書にないとは、ちと度が過ぎているようである。」などの記述もある。
ネットで日蓮御書を検索してみると本尊抄に、
止観(しかん)の七(なな)に云く「昔鄴洛(むかしぎょうらく

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阡陌陟記

阡陌陟記には続編があり、仏道雑記(ぶつどうぞうき)・大石寺法門と日蓮正宗伝統法義・大石寺法門と続くのであるが、「阡陌」に関する記述がある。
「阡陌(せんぱく)とは仏法所住(ぶっぽうしょじゅう)の処である。戒定恵(かいじょうえ)はそこから出現しているのである。その意をもってまず阡陌をあげ、三学を取り出したのである。

阡陌陟記の序

序(じょ)
 この小録(しょうろく)を名付(なづ)けて阡陌陟記(せんぱくしょうき)とする。東西南北(とうざいなんぼく)わたりあるきと訓(よ)むのであるが、実(じつ)は四維(しゆい)上下(じょうげ)を求(もと)めて陟記(しょうき)する意(い)を含(ふく)めている。東西南北(とうざいなんぼく)は仏(ほとけ)の領(りょう)する所(ところ)、四維上下(しゆいじょうげ)の一隅(いちぐう)は上行菩薩(じょうぎ

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