人は二度死ぬ
ある人から聞いたこの言葉が、いつも私の心の中で響いています。
「人は二度死ぬ」
どんな想像をしますか?
この言葉の意味は・・
たとえば私たちがよく知っている「織田信長」はまだ生きているとも言えます。
肉体が燃やされて消えるとき、気化します。
ということは織田信長の気は、もしかしたらまだこの空気中を漂っているかもしれないんですね。
そして私たちが「おだのぶなが」とつぶやけば、その言葉の波動によって、少し上空に織田信長の気がピュッと集まって来て。
そこに織田信長がポッと現れているかもしれません。
私は父親が亡くなってから父親のことを知りました。
父親が生きている間、私は自分の話ばっかりで。
父の悩みとか、父の仕事の話とか、聞いたこともありませんでした。
父が亡くなって葬儀に200名近い人たちが来てくださいました。
私は49日の法要が終わるまで仕事を休み、会社にご挨拶に行ったり、親しかった友人にお会いしたりして父の話を聞きました。
葬儀に来れなかった人と電話や手紙でやり取りもしました。
父の部屋の物や写真を片付けながら(こんなものを大切にしてたんだな…)(こういうもの買ってたんだ…)(こういう本を読んでたんだ…)(こんなところに行ってたんだ…)と、モノを通して父を知りました。
そして(楽しかった?)(この人、私も会ったことあるね)(このとき、こう思ってたんだよ)と、脳裏に浮かぶ父と何日も何日も対話しました。
結婚して家から離れていたけれど、ご近所の人に会えばことごとく声をかけてくれました。
犬の散歩をしているお爺さんから町会長の人まで。
小学生の子供まで「おっちゃん、もうおらんようになったん?」と話しかけてくれました。
私の知らないところで、父がどんな生活をしていたのか…
私のいないことろで、父がどんな人間関係をつくっていたのか…
私は父が亡くなってから思い知りました。
もっと話を聞けばよかった…
どんな人生だったのか、どんな子供時代だったのか、思い残していることがあるか、何が辛くて何が嬉しかったか…
そのとき頭のちょっと上のところから(そんなもんやろ、子供って)(そんなこと気にせんでええやん)と父が笑いかけて来たような気がしました。
困ったときは心の中で父に話しかけると必ず返事が返ってきます。
それは生きているときと何ら変わりなくて。
今、私は父が生きているとき以上に父のことを知っています。
たぶん今も、頭のちょっと上のところでニヤってしてる…
それから私は、私が死んだら、残された人たちの心の中に何が残るだろう?と考えて生きるようになりました。
生きているときは、言いたいことなんて1/100も伝わらない。
生きているときは、相手のことなんて1/100もわかってない。
本当に大切なのは死んでからかもしれないなぁって。
そう思ったら、べつに今日できなかったことや、失敗なんてどうでもよくて。
ただ、死んだ後の自分が恥ずかしくないように、まーっ直ぐ進むだけだなぁと思います。
たぶん織田信長もそうだったんじゃないかな。
昔の日本人は、地位や名誉を重んじ、自尊心にこだわりがあった。
見えない存在に対して、恥ずかしくないように生きた。
それが現代では歪んでしまっているように思える。
人間は自然の営みの中で循環しているー
大切なことを忘れてしまったんじゃないかなぁと思います。
最後までご覧くださり有難うございます。
「親のみとり意見交換会」をZOOMで行なっています。
がんの親を自宅で看取った看護師、
介護施設から親を引き取って看取った看護師、
余命1ヶ月と告知された父を看取った私も参加します。
家で親を看取るなんて初めての人がほとんど。
だから一緒に考えたり、悩みを解決したり、違う意見を出し合って参考にしたり…
少しでも安心できるような会になったらいいな~と思っています。