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創作した責任の放棄。

私は個人で、アニメーションを作っている。
そもそも物語を作ることが好きで、アイデアを蓄積してきた。

「冒険活劇」
「恋愛もの」
「サイエンス・フィクション(SF)」
「生命論理」  etc.

そして最近、感じるようになった。
「表現する人」と「受け取る人」は全く思考回路が違う。
「考え方」が違い、「立ち位置」が全く異なる、と。

まず私自身が、「表現する人」であり「受け取る人」である。
SNSが発達し、あなたを含め、多くの人がそうであるかもしれない。

「表現」とはとてもエネルギーを使う。

まず、「表現する」とは新しいものを作ること。
パクリ・コピペではできない。
みなさんも、なにかアイデアを出さなくてはならず、けれも全く出ない、、、こんなに考えても浮かばない、、、という経験はないか。

たしかに、作品を作ることは、考えてなにか作るというのでなく、一瞬の思いつきや発想で生まれることだ。

ただ、
表現するには、1つアイデアを出すだけでなく、それを無数に上げ、
組み合わせるということが必要。

ただ、苦しいことではない。
自分の世界、考え、人格、アイデア、
これらが形となって現れる、という爽快感は格別だ。

それに「ものを見る目」が変わることで、世界観が変わる。


例えば、「仕事机」の絵を描く時。
あれほどモノが散乱していた机が、いざ描くと、きれいで整理さてた不自然な絵となってしまう。
何があり、形はどうか。
いちいち観察するようになる。
そうすると世界への認識の仕方が変わる。世界がわかる。


では、情報を「受け取る」人はどうだろう。

まず、格段に頭を使わない。思考しない。
ボーとしながらでもできる動作だと思う。

そして、一定の被害にあっている。

あなたも、SNS上の膨大なコンテンツに時間を多く消費し、

失った時間に後悔したり、
逆に、限りある時間を嘆いたり、
自分の住む現実世界をみて、無気力になったり、


しないだろうか。
私は、たくさん経験した。

「表現する側」は多くの場合、「表現」に何かしらの利益を得られる
しかし「受けとる側」は「表現する側」の表現に縛られてしまう。

もともと、表現を「受けとる側」は一番、利益を得てきた。
けれども、膨大な情報が行き交う社会において、「表現」は

「過度な美化による、過度な現実逃避」
「多くの情報による、時間の消費」
「安価で大量に生産する体制」


を作り上げ、私達コンテンツ消費者は大きな被害にあった。


たとえば、
異世界転生モノというジャンルがある。
これは、主人公が死んで、理想世界であたらしい人生を歩むというものだ。

ちょっとした息抜きや現実逃避にはとてもおもしろい内容だし、
過度に摂取しなければ無害なように見える。

ではなぜ、私たち消費者は異世界転生モノが好きなのか?

当たり前なことだ。
私達がこの息苦しい世の中から開放され、
自分だけが特別でいられる、生きやすい世界に飛び込みたいから
だ。

そして、そのようなことは絶対に、現実に起きないと わかっているからだ。


私達は、現実世界に不満を抱えている。

その不満を、この物語はきれいに解消してくれる。
だから私達は、異世界転生モノが 大好きだ。

しかし、私達は満足することで  あることを忘れた。
それは、現実の生きづらさを取り除き、改善することである。

この物語が解消した「不満」や「生きづらさ」は、
その「不満」を改善するために現実世界を「変える」ための
原動力になったはずであった。

つまり、私達は物語で「ストレス解消」したことで、
「ストレスの原因」を現実に放置したままになっているのだ。

現実世界でためたストレス(問題)を、
空想世界で解決する。

こんな場違いなことをしている。

しかし、コンテンツの役割が「現実逃避」の要素を多く含んでいるため、
異世界転生モノでなくても、
ほとんどのコンテンツで同じようなことが起こている。

現実世界では、なにも改善されず、成長できず、
日々の繰り返しのなかでストレスが溜まってく、、、

でも、「物語(コンテンツ)」の中では、自分の理想の世界が待っている。

現実とコンテンツのギャップが生まれ、現実世界が嫌になっていく、、、

こんなことがないだろうか。
私はあったので、恥ずかしながら記事を書いている。


そして多くの場合、「現実と 非現実 (物語)」の境界線も揺らいでいる。

つまり多くの人が、
「現実」と「非現実(物語)」の区別がつかなくなっている

これは言いすぎだろうか??

いや違う。
無意識のうちに私達は「非現実世界」に影響されている。

例えばさきほどの、異世界転生モノのこと。
私達は、主人公達を見て「転生したいなぁ」「あの世界はいいなぁ」と思う。

はたまた、「生まれ変わったら、、、」といったことを考えるようになる。

知らないうちに、、、、
私達は「自分の時間」に限りがあることを忘れている。

「現実世界」
これは何も特別なことではない。
これは「自分の人生」のことだ。いつか終わる。

でも、終わっても、また新しい人生が始まると、心のどこかで思っている。

科学的に言って、「死ぬ」ということは「無になる」ということだ。
多くのみなさんが、天国の存在を否定し、輪廻転生を信じていないと思う。

でも、私達は
「終わる」
ことを現実的に考えなくなった。

それどころか、「コンテンツ」によって
現実世界をより充実させようという思考が働かなくなった。


コンテンツの制作者は、そのコンテンツで
お金を稼いだり、自分を表現したり、モノへの視点が変わったり、
多くの利益を受け取れる。

しかし、コンテンツの消費者は
現実を充実させることを忘れ、
時間を浪費し、
人生に向き合いづらくなる。

なんとなく不利益が多い。

うまく消費すれば「コンテンツ」はあまり害でないのは確かだ。
だからこそ、多くの弊害に対し「消費者」が悪い、と言われてしまう。

しかし表現者も、もっと弊害に気づき、自分の責任とすべきだ。
「作り出したから偉い」のではない。
コンテンツのあふれるこの社会で、コンテンツを生み出すことは、
ある意味、「良いこと」と同時に「悪いこと」を生み出してしまう。

私達「表現者」は、
もっと責任をもってコンテンツを生み出すべきだ。


こんな事を言っていると、表現者の皆様は怒るだろう。

しかし、かくいう私も表現者の端くれである。
いま、アニメをコミュニティーのなかで制作している。

そんななか、
「表現すること」がどうして、こんなにいびつな形になってしまったか、とても疑問である。

次回の記事において、
この「表現する側」の置かれている状況について説明したいと思う。
(6月中に記事を公表したい。それから、記事について意見もほしい。)

こんな 長く分かりづらい文章を読んでくれて  ありがとう。


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 この記事の作者: 000- eizou

詳細:オリジナルアニメ『眠ㇺ -nemu-』を制作中。
リンク:https://sites.google.com/view/sennzai/%E6%98%A0%E5%83%8F%E9%83%A8%E9%96%80( ←長い!!)

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