
親と子の生活リテラシー<その1>「比較」について
◼️シーズン4「親と子の生活リテラシー」
ダラダラと漫然と、そして、果て無く漂うように垂らしこまれる落書き。生活思創は続くのだった。今回から「親と子の生活リテラシー(言語化する能力)」というお題でシーズン4を始めます。
家庭の中ではそんなにボキャなくてもおおまかのことは通じますし、日々の生活は衣食住がベースなので、それほど言葉に頼らない場面が多くを占めています。しかし、その「まあ、わかるっしょ、お互いに」でスルーせずに、一旦、立ち止まって、もうちょっと言葉を足していってはいかがかと考えております。
ほっとくと、何気ない習慣が生活文脈を作ってしまうと危惧してます。どこの家にも暗黙のルールがあり、明文化されることもなく、父の座る場所、母の週末の過ごし方、子のお稽古事の家庭内でのサポート、などなどが決まってたりしますよね。身体的な空間や時間にパターンがあると、そこで使う言葉はどんどん少なくなっていきます。そもそもの生活のリテラシー(言語化する能力という意味でここでは扱います)は、時間の長さの割には狭いままなのです。そして、狭くても困らないのだ。
まあ、なんでもかんでも切り込む気は無いのだが、子供が成長するにつれて、よりリテラシーが求められそうなところもあるだろう。社会に出れば360度を他者で囲まれるなら、人間関係を紡ぐためのリテラシーは豊富なことに越したことはないだろう。
そこで、敢えて生活の澱のようなものが沈澱していくことに、抗ってみます。コネます。店頭に並んでるスノーボールは買う気がないけど、一通りシャカシャカ振りたいのです。
シーズン4は、子供と親が家庭内ではあまり使わない単語や用語を親子視点で眺め直すのがテーマです。子供の周囲の世間ですから、学校周りの言葉や概念についてですかね。特に小生にとっての記号接地(現場体験と紐づく臨床言語)は、小学生6年の娘と、1年の息子との親子生活なので、この辺りの生活現場が対象領域です。
◼️第一回のお題は「比較」
まず最初は「比較」という言葉から、親と子の生活リテラシーを深掘りします。
父「テストの成績で人と比較する必要はないよ。」
娘「平均点よりメチャ低かったけど、これも関係ないの?」
父「平均点とか目安でしかないし、平均なんて人はそもそもいないし」
娘「じゃあ、学校のテストって人を比較するものじゃないの?」
父「まあ、自分の中での習得度を知るって思ったらいいんじゃないか」
娘「100点が習熟度最高って、自分じゃない知らない人が決めてるのは、なぜ?」
父「確かに。俺も知らない人だな」
こんな感じで、日夜地雷を踏みまくり、返り血を浴びながら子供とやりとりしている父なのであった。常に、何やらモヤモヤするものを、家族の日常にある「比較」の話からもらっています。
結構、「比較」は、やっかいな単語じゃないですか?だって、「自分らしさ」とか言った瞬間に、周囲との差異が浮き上がるわけですから、比較する行為自体は人が生きていくのに必須な態度であり、性(さが)っすよね。
「人と比較してはいけないよ」はほとんどの自己啓発書に書かれたテーゼなのに、実際の普段生活では、むしろ、自然体で他者と比較し合っています。だからこそ、至る所で比較NGと言われているなのだろう。
おまけにですよ、テストでさえ、満点取ったら嬉しいわけです。0点取ったら凹みまくります。(なかなか実点数で0点って取れないけど)比較が引き起こす勝者的な気分や敗北者的な気分が比較にはセットなのです。そう、この情緒的な気分が人を躓かせるらしいのだ。
なので、比較行為の範囲に留意してみようと思うのです。
・比較+評価+感情 → 比較行為一般。
こうなると、比較以外の評価・感情が入ってきてしまいます。
・比較+参照 → 生活思創で試考したい比較の範囲。
もし、ここまでを「比較」の範囲にできたら、比較の全否定から比較を救えるかもしれない。
ということで、「比較」の解像度を上げます。まずは、比較評価が一番クリアで世の中で受け入れられているのもを参照して、そこから話を立ち上げます。
スポーツ、特にプロスポーツの世界はチーム間、選手間の比較の塊です。細部のスコア化までを比較に含ませるなら、選手1人のパフォーマンスも一挙手一投足までを比べて、上下をつけることができています。もちろん、それで収入を得ているから比較評価されることは織り込み済みなのですけど、そこにはスポーツマンシップという比較世界での倫理観があります。
・スポーツマンシップの必要項目
フェアプレイ: 競技規則を守り、公平な競技を心掛ける。
尊敬: 対戦相手、チームメイト、審判、観客に対する敬意を示す。
チームワーク: 協力し、共有の目標に向かって努力する。
自己抑制: 感情をコントロールし、過度な怒りや挑発に反応しない。
敗北の受け入れ: 勝敗に関わらず、結果を尊重し、謙虚に振る舞う。
・反スポーツマンシップでの対峙項目
不公平なプレイ: 故意のルール違反、反則行為、試合を不当に操作する。
他者への不敬: 対戦相手や審判に対して侮辱的な言動をする。
非協力的な行動: チームの利益よりも個人の利益を優先する。
感情の制御失敗: 怒りや挑発に応じて暴言や暴力に訴える。
敗北への不適切な反応: 敗北を受け入れず、言い訳や責任転嫁をする。
生成AIが切り出した部分を眺めて見ると、比較世界での倫理(ここではスポーツマンシップ)が破られてしまう大きな原因の一つには感情的なエネルギーがあることがわかります。そこで、比較には感情の強い揺らぎがあるらしい、と試考してみます。
で、比較行動には感情的なエネルギーが強く流れてるなら、これを区分してみます。「比較熱」と名づけてみましょう。

つまり、自分が誰かと比較するときにどうしても比較熱が出てしまう。感情的に揺らぐのだが、どうでもいいことなら揺らぎもしない。比較熱はあるかもしれないが、気にはならない。しかし、自分が入れ込んでいるものについての比較行動では比較熱が大量に出てしまう。感情的になっちゃうのだ。やっかいなのは、比較熱という余熱エネルギーが本体の自分の精神状態にまで影響を及ぼすことです。
◼️感情の加熱の様子と、冷却の手段について
比較熱を相補性で分解(生活思創の方法論で言う分析生活)したのが図表100です。
初期比較は、他者と自分を比べる穏やかな感情のゆらぎで、典型的な反応を置いてみました。比較には上下と遠近があるとしています。で、まずは上下の方向。自分が他者よりも比較で上位、比較優位みたいな気分があります。「おお、私は行けている」みなたいなw。これが自信。この反対に比較下位もあります。「うーん、これだと私は負けになるんだな」こっちは反省。
そして、遠近の方向、近いと同じ熱量でも熱さを感じます。ライバル的なゆらぎなので対抗心が生まれる発熱の方向です。「やるな、負けないよ」は、お互いが近い存在とみなした証です。また、比べてみると、自分が大きく全体から距離があるような感覚もあるでしょう。他者比較で、ちょっと疎外感に浸る方向です。「みんなにあって、わたしにないもの」みたいな。どれも、感情に私が飲み込まれる前の姿です。なので、初期比較の段階としてます。

さて、ここから比較熱の加熱が高い状態(外枠の赤い円)も試考してみましょう。初期段階よりも反応が高い段階を加熱段階とします。ここでの加熱段階とは、感情に自分が飲み込まれてしまった状態です。(硬くいうなら、理性が感情に侵食されている?)
比較上位で自信のポジションは、加熱変容して優越感になります。「私は他の人とは異なる存在だ」みたいな強い自己肯定ですかね。反対が、比較下位で反省の先ある劣等感です。「私はもうダメだ」の強い自己否定。ライバルを感じる対抗も、加熱が過ぎると嫌悪感になって、「あいつだけには必ず勝つ」のような敵対心にまで昇華する危険があります。最後の、居場所のなさが阻害を感じさせる方向なら孤独感であり、「私なんかは、いないほうがいいんだ」ぐらいまで行くこともあり得ます。
感情のエネルギーが偏った信念になってしまうのがやっかいです。
では今度は、比較熱の反対を試考してみます。生活思創は対称性を旨としてます。図表100のようなフォーメーションには、それと対になるもう一つのフォーメーションが存在するだろうと試考します。それが図表101です。

対になるフォーメーションなので、造語の比較熱に対しても無比冷却という名称を充ててみます。唯一無比からの無比です。
<比較熱のサイクル>
誰か他者との比較→自分のランクを決める→評価への感情の加熱状態(優越感や劣等感など)→評価軸が自分の価値観となって肥大→サイクル最初へ
<無比冷却のサイクル>
誰か他者との比較→自分のユニークさを発見する→自分のユニークさの意味の発見→評価軸と自分の価値観との最適距離が設定できる→サイクル最初へ
無比冷却は、比較を評価として扱いません。比較はヒントという捉え方をします。自分のユニークさの発見の場とみなす態度です。すると、感情的な揺れはかなり治まりますよね。「もし、この比較結果に自分のユニークさが絡んでいるとしたら、それはなんだろう?」という問いを先に立てる習慣、とも言えそうです。
◼️無比冷却の側から試考してみる
最初にお見せしている図表99に無比冷却を重ねてみたのが図表102です。サポート側や内省からの働きかけが、比較からの揺らぎの中にいる「私」に来ている構図です。
付け加えると、自発的にできるっていうのが内省なのですが、そうそう普段の生活で比較熱を出さないのは難しいでしょう。なので、主にはサポーターがいるとして試考しています。家庭のパートナーでも、親しい友人でも、自分の比較熱の話を聞いてもらうと落ち着きますよね。そのときに、「まあ、そんな小さいことでムキになるなよ」、「あー、前も似たようなことあったね」などと言ってもらえると、目先の評価軸に囚われてしまっている自分から戻りやすくなります。比較熱が冷めやすいのだ。

無比冷却と比較熱が対称性の関係なら、事例の4方向にも対になる冷却の4方向があるはずです。それを重ねたのが図表103です。中心側にライトブルーなラインが無比冷却です。
比較の上下に関して。自信→感謝になると「他の人があっての比較の場だとしたら、優越感も比較対象になってくれている人のお陰」まで、無比を前面に押し出した再解釈ができますね。反省→賞賛の側は「自分よりも上ということは、それなりの才能を活かした証拠だろう。それはそれで意義ある努力だと思える」ぐらいまで思いを膨らますことができます。
比較の遠近について。対抗→敬意は「なんか自分の励みになるものを見せてくれる有難い存在」とも言い換えることが可能です。疎外→共感も「こうやって比較して違いを強調する世界では、他にも疎外を感じてる人がいるのかもしれない」など、視界を広げることで他者も取り込んだ読み替えができます。うーん、スポーツマンシップそのものだねw。

そして、中央に置いたのが「ユニークさの意味」です。自分の固有性、つまり、唯一無比に目線が向かうなら、他者との比較は全てプロセスでしかありません。比較はヒントです。
そして、「ユニークさの意味」の探求が、「比較」の生活リテラシーの核心ではないかと。
父「このテストの点数の評価は、どこかで君のユニークさに繋がってるらしいよ」
娘「どこどこ?」
父「今は父にもわからない。たぶん、もっと多くの種類の比較を試さないと、見えないかもね」
娘「もっと比較したほうがいいの?」
父「そのためには学校のテストだけじゃ比較の種類が足らない。もう、自分でテスト問題を作って、自分で答える必要があるな」
娘「学校みたいなテストを自分で作れってこと?」
父「社会で何か行動を起こすこともテストの一種だよな。社会から比較評価されるわけだから」
娘「小学生には難しそう」
父「大人にも難しいよ。でも、テストの点数だけで比較評価されるよりは気分がいいかな」
娘「いつまでやれば『自分のユニークさってこれだ!』ってなるのかな?」
父「大人になっても続けないと。自分のユニークさなんて、世界が変われば変わちゃうからね」
◼️親と子のユニークさの探求から始める比較
人と比較すること自体が日常なことだが、そこからの比較熱の出具合が、ヤバかったりします、ってな話でした。特定の価値観への拘泥は、最終的には自分を見失ってしまうわけで、「数学の点数がみんなよりもいいから理系へ」や「私の収入はこのぐらいだから、こういった生活をするのが相応しい」とか、人生の価値観を比較評価に乗っ取られていくなんてのは、本来、誰一人として望まないわけです。
ただ気になるのは、無比冷却も単体での扱いは難しそうだということです。比較熱も比較行動が先行してから出てくる位置付けだし。やはり「ユニークさ探求」の習慣化で、無比冷却を出し易い生活にするのが親子としての手筋ではないでしょうか。
つまり・・・
・好ましい比較(比較熱が少ない)とそうではない比較(比較熱が多い)は、比較の内容で決まらない
・そもそもの比較から何を得ようとしているのかがポイントになる。外部評価だと比較熱高く、自分への望ましくない影響が大きい
・多くの人と共有しているような、外にある評価軸に従う→X
・自分のユニークさを探求していくヒントとして比較を使っていく→○
・親のサポートがあるとすれば、子供の比較評価から子供の視点を自分のユニークさに向けてもらうこと

親が子のユニークさ探求を奨励しているなら、比較するのを恐れることはないのです。ただし、そのためには個人(ここでは子供)のユニークさを多種多様な比較で探求する覚悟(面倒臭さの受け入れ)と態度(判断を保留する寛容さ)が必要だってことだね。
追記:
ネガティブ・ケイパビリティ
不確実性や曖昧さに対する忍耐力を強調し、答えを急がない心の状態を促します。これは、創造的な発想や深い思考に特に有効です。
ポジティブ・ケイパビリティ
具体的な目標に対して効果的な行動をとることを強調し、結果や解決策に焦点を当てます。これは、目的達成や問題解決に特に有効です。
生活思創はネガティブ・ケイパビリティがベースです。でも、ポジティブ・ケイパビリティは自分事が絡むと比較熱が出やすいけど、無比冷却が都度できるなら比較するのは全然OKなのだ。
Go with the flow.