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不登校で再考する子供の評価<その4>不動と転写

■アンラーニングの時代へ

最近、教育関連の仕事をしている友人より「冒険の書」(著:孫泰蔵、2023年)を勧められて、読みました。アンラーニングの必要性について洞察している本です。

常識を捨て去り、根本から問い直し、その上で新たな学びに取り組むアンラーニングが、通常のラーニング以上に大事な態度になるはずです。ラーニングとアンラーニングを繰り返しながら進める。この姿勢こそが「探究する(explore)」という本当の言葉の意味だと思います。(P321)

「冒険の書」より

ラーニングとアンラーニングの関係に意識的なることが、学びの進化のキモだと思います。小生はアンラーニングを、学びの中心軸がシフトすることだと定義しています(まあ、今のところね)。大人になると学びが直線的になります。目的地が見えたような気がするのです。典型的な事例を挙げると会社員です。就職して、業務を学び、より複雑な実務を経験し、マネージャーとしての知識・スキルを学び、経営に参画するメンバーになるための知見を身につける、っていった一連の流れは、それぞれ学ぶ内容が異なるようですが、学びの中心軸は一本線で走ってます。中心不動です。テーマはビジネス学習、やや意地悪な言い方をすると出世カリキュラム軸。

 私たちはこの流れが中心不動であるとは思ってないところがあります。職業のスキルとして、専門性を高める=一生懸命周辺知識を学びながら、実務経験を積む、というのが正解として疑ってないのです。しかしですよ。オープンAIなどのIT進化に伴って、会社組織が階層別にガチャンガチャンって上がっていく仕組みが続くかどうかは怪しい時代に入っている訳です。信じていた中心軸が霧消しつつある時、計画立てた学ぶ足元が液状化しつつあります。
 つまり、手堅さが裏目に出そうな予感があって、「もっと早く、あっちの方に向かって学びを進めておくべきだった」、「ああ、どうせこうなるなら、会社の期待に沿う学びではなく、自分が一生続けられる学びを目指せばよかった」など後悔と怨嗟が予想できているのです。

 でも、信じ切っている中心軸を変えるなんて、これは魚に水に気付けと言っているような話ですから、信念からの単独脱出は簡単じゃないんです。この場合、他者の存在が大切になります。違和感を自分の中に発生させる装置です。単なるヒアリングでは自分の中心軸は変わりませんけど、お互いに何か新しいものを探りに行った時、「もしかしたら、自分の目指したい方向はこれかもしれない。ならば、そこに向かうために必要な学びが何かを考えてみよう!」そんな意識転換が起きるのです。アンラーニングに意識的になることとは、そういった自己変容には自己否定が伴います。既にある堅牢になりつつある学びの中心軸を否定されても「それもまたよし」ぐらいのメンタリティが必要なのです。

 話を子供に繋げると、学ぶではなく学びの中心軸を浮かび上がらせる体験(チャレンジ)を提供(サポート)したいってことになります。そして、親の既存の中心軸を同時にアンラーニングできたら、これは<Whole parents>の目指したい相互変容の意味だな、って考えたいのです。「どうも、こういう研究をしたら面白いかもしれない。そのためには、こういう学びがありそうだ」子供、に対して「そうか。そういう点に関心を持つのか。そこを深めながら自分が興味を持てる学びって何かな?」親、の関係を相互変容と考えてみます。

実際の我が家で描写してみましょう。

<長女>
・現在の長女の学びの中心軸:創作活動のための学び
・学びのコンテンツ:リアル小説を読み、面白ければ再読する学び

<父親>
・現在の小生の学びの中心軸:日々の生活を再考するための学び
・学びのコンテンツ:不登校や移住など、実生活の体験を起点にした学び

<親子>
・相互変容が期待できる共通の場:毎週、車で連れていく行く図書館
・相互の中心軸の変容テーマ:
(子)リアル小説とプリ小説の重ね合い方
(親)仕事(アンラーニング)と興味関心(ラーニング)との重ね合い方

まずは、この辺りまでは意識的にできます。客観的な視点はMindに働きかけますけど、主体的になるのはBodyとともにあるので、あとは現場が全てです。でも、意識的なら、親のサポートに習慣化して織り込めます。常に相互の変容テーマに沿った図書館通いや、親子のなにげない会話(「この意味って何?」とかが多い質問だが)に都度、反映(「この意味は・・・、プリ小説の会話調で使うなら・・・」とか?)するように留意していきます。


■相互変容を見える化してみる

では、今までの流れを受けた形で、大人と子供の関係を投影させて、相互変容を可視化してみようと思います。相互変容と言っても、ラーニングに邁進できる子どもと、アンラーニングを含めて変容を目指す大人では、いくつか留意したいズレが存在します。

<図表5>

まずは<図表5>の左側です。人は誰もが大なり小なり学びの中心軸を持っています。生活全般で自分の興味関心の方向意図強さみたいなものですから、人の欲求のベクトルであり、学びはその一部分を担っているという見立てで話をすすめています。実際の人間はそんなカクカクした感じで動かないけど、学ぶという行為を言葉で扱うための手順です。
 中心軸は学びだけでありません。娯楽の中心軸や、仕事の中心軸など生活で起きる選択行動に割り振られた形になっているので、学びの中心軸の強さや方向は個人差が強いはずですね。「こんな本が好き」から始まって、「今、趣味で資格取得の勉強しててね」、「ボランティアは本を読むより社会を学べるんですよ」など、まあキリがないというか、その繰り返しと変遷が人柄を作っています(人柄が学びを導くように見えるけど)。この個人差を学びへの信念とします。人の学びは「かくあるべし」ですかね。
 人生経験と相関度合いが高いはずです。やはり、子供の学びへの信念は浅く弱くで、大人のは深く強いでしょう。自発的に学ぶ力を大人は持っていますが、その分、一旦決まってしまった信念「学習はかくあるべし、教育はかくあるべし」の変更にはエネルギーが要ります。学びに関する反応の高速道路は、便利だけど、この道路をルートも含めて変えましょうとなると、おおごとです。撤去費用も込みなのです(アンラーニングの大変さの意味ね)
 そこへいくと、子供の信念はまだまだ浅いので、舗装も怪しい遊歩道ぐらいなできですから、「あっち行ってみよう!」で草むらの中を走り出す=新しい信念ぐらいなところがあります。

 さてこうなると、大人と子供がセットになった相互変容、ここでのテーマである親と子の学びへの中心軸に揺らぎを与える中心軸の創出には、いくつかの課題が見えてきます。

 ・影響の度合いの違い:知の母数が少ない子供は何をやっても「ああーこれは、面白い」になりやすいですが、大人は「ああーあの話がまた出てきた」ってな感じで、学びを自分の信念に沿って解釈と判断してしまうんですな。今までのラーニングの成果だと本人は思ってますが、時代の変化はそれを成果ではなく負債にしてしまうわけです。きっと、口では変わりたいと言っていても、気がつかないうちに、変わる必要性がないと自問自答することも多いんでしょう。それが大人。

・スピードの違い:当然ながら変容のスピードは異なります。大人の既存の知識体系が巨大なので、その中心を移動させるのには時間がかかります。もちろん、仕事やら生活を回すための行動で時間が取られますから、アウトプット主体になっています。学びもそういった仕事や生活を通じてなされていくので、今までの学びの中心軸が強化されながらのアンラーニングだからです。「次の業務のために、最新の業界知識を集めて、社内共有しよう」とか、「学びは仕事のためにするものだ」という信念があってのことです。「長い人生を見つめ直すためのじっくりした学び」が並行してなされていても、時間はかかるのです。

・共有の場のエネルギー:こうやって整理していて、何が重いかというと、この共有の場、子供と一緒に親が関わりながらお互いを刺激し合う機会を作り出す物理的な負担が大きいでしょう。先のに項目は、意識的なものでいけるのですが、この物理的なという話になると次元が変わります。人生の時間と生活の空間を差し出す覚悟が必要なのです。Being とBodyでコミットしろよ、って。アンラーニングの機会が貴重であること強調しているのは、親子の相互変容を積極的に推しているのです。


◾️世代交代が、より良い社会になる仕組みとしての親子相互変容

<Whole parents>の視点で考える親子の相互変容ですが、これは個人的な意味や家族内での意義で終わるものではないのです。人によっては、ここが一番共感してくれる考えかもしれませんが、社会を変えることの最短距離の可能性があるということです。

説明しますね。

図表6


親子の相互変容の意義を考える時、この反対の親子の中心軸の転写という視点で眺めると分かりやすくなります。
 <図表6>P-1が中心軸の転写です。自分の学びの中心軸を子供にそのまま転移させるパターンです。「いいかい、人生を豊かにするためには高収入が必要だ。そのためには良い学校にいくことが可能性を高めてくれる。今は学ぶのが辛くても、必ず良いことになって返ってくるから、頑張ろうね」なんていうのは、子供に言いながら、自分の信念を自分で反復させて語っています。
 さて、これはとある親子の信念転写の話ですが、社会的に重要な課題を残しています。次の世代に古い信念を残すことで、社会が変わる力を削いでいまっているのです。
 ここだけの話。小生は「日本の失われた20年とか30年」っていう言説は、この親からの中心軸の転写によって、古い信念が次の世代に引き渡されてしまったが故の遅滞から生まれたものだと思ってます。アンラーニング不足ですかね。
 この親子間の信念転写は非常に強力です。表面的にはIT化やグローバル化で、新しい知識はインストールされています。でも、学びのパターンはあまり変わってはこれなかった、自分の人生が金銭的により豊かになるためのステップとしての学び、自分お親からの信念の遺伝のようなところはありませんか?
 学びだけではないですよね。男性と女性の家庭での役割は、もう親の世代が持っていた信念が家庭生活の中で転写されていくので、「社会での男女差があるのはおかしい」という案件については皆んな流暢に語るのですが、いざ、生活現場になと旧来の価値基準が根強く残ってしまうのは、子供時代の刷り込み(信念の転写)が、全部だとは思わないですけど、結構、大きいのではないかなと思ってます。まあ、ダメな父親、毒な母親という反面教師からの転写もありますから(ネガポジの関係か?)、正反対な価値基準に固執するという影響もあります。
 もちろん、社会の中で変化していこうとする人々の影響も受けながら生活していきますから、ほっておいても古い信念は弱まり、社会変化につながっていますよね。ただ、もし、そのスピードを早めるなら、この親子の相互変容からスタートすることが肝だという話なのです
<図表6>のP-2参照。

 初期設定段階での修正が一番エネルギー使わないんだよね。後々になればなるほど、変更はやっかいなのです。仕事も生活も、そして人生も。

さて、ここだけの話を終えて、せっかくなので、学校教育と相互変容についても触れてみます。不登校の話も、相互変容の視点で説明できる部分もあるからです。
 実は、「不登校は生徒だけでなく、不登校の先生も生んでいる!」っていう展開です。 昨今の義務教育での教員不足について・・・、教員を辞めてしまう理由にも、子供の不登校と同じパターンがあるという意味です。

Go with the flow.


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