
夢見の物理学者 現実ってなあに?
新しいノンデュアリティから「現実」を語ってみます。
そもそも「現実」とは何者でしょう?
これが事実でこれが現実よ!と、声を荒らげる人まで居ます(笑)
現実と認識してるのは
人間だけです
ペットのワンちゃんは「お腹が空いた、これは現実だ」とは思ってないですね。
ワンちゃんの「お腹が空いた」は「体感の理解」です。ワンちゃんの「寒い」も「体感の理解」です。
体感の理解を「現実」と呼びます
ワンちゃんは「体感のみ」で現実を把握しますが、人間は「頭」と「体感」で現実を把握します。
人間だけが「頭と体感で現実を把握」します。
ノンデュアリティを日常に活かしている人は「体感のみを現実と把握している」ように視えます。
体感のみを現実と捉えると、生活がどう変わるか?
基本、悩まなくなります(笑顔)
例えば「この人、嫌いだな」これが「体感の理解」だけで決まります。
誰かを好きになることも、嫌いになることも「あーだから、こーだから」と理由を付けなくなります。
頭で判断しようとするから「こーだから」が必要になる。
頭は根拠を必要とするからです。
体感は根拠を求めません。
お風呂に入って「こーだからぬるい」と発想しますか?しませんね(笑)
湯の状態は「ぬるい」から沸かすだけです。この湯温は身体に悪いから沸かそうとは発想しません。発想する人は面白い人になります(笑)
自転車も「体感の理解」で乗っています。体感で「自転車に乗れることを理解している」から、乗れることを再認識せずに乗れるのです。
体感で理解できたことは、いちいち頭で考えません。
体感で理解できたことをいちいち頭で考えるのは物理学者か数学者くらいです(笑)
保江先生は体感を頭で考えて理論化していました。
体感を頭で考える。これもノンデュアリティを日常に活かしている人の特徴です。
保江先生も「現実の捉え方」が普通ではありませんでした。
ーー私の記憶にある保江先生ーー
この世界は、完璧だったものが「破れ」、破れた完璧が元に戻る力で発生している。
即ち、この世界の如何なる事象も「完璧に向かっている1通過点」になる。
そこから現実を眺めれば「全ては完璧な事象」となる。問題など、人間の浅はかさが「そう視ている」歪んだ視野でしかない。
だから如何なる相談を受けても私は「魂から大丈夫」と渡せる。
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保江先生には3年間、本当に楽しませて頂きました。傍で見せて頂き貴重な3年間でした。現在は破門され交流がありません(笑)
菜穂さんも完璧な大丈夫を対面者に渡していると、何度か保江先生がらみで接触して見えました(笑)
生活が歪む原因は「頭の理解と体感の理解を分けないから」になります。
頭の理解には「想像空想」が入ります。頭が納得するための「論理的根拠」を必要とします。
頭の理解は「現実とズレ」ます。
現実は「体感の理解」になります。体感の理解は、ハズレたとしても引きずるように後悔はしないモノです。
誰かを信用するのも「まずは体感」になる。セッションで何を語るかも「体感」になる。
体感で選んだことを体験する。この繰り返しが新しいノンデュアリティ生活です。
何をするにも「体感で判断して体験する」を続けます。
やることはいつも同じ
真理だな〜(笑顔)
嫌なことばかり起きますは、頭の理解と、体感の理解を分けていないから起こる「認識」です。
頭の理解と、体感の理解を、分ければ「嫌なことばかり起きます」は発言しなくなります。
ノンデュアリティは日常生活に活かしてこその叡智です。悟りも同様。特殊な時間空間で活かすものじゃない。
と無名ですが
発言させて頂きます(笑顔)
