■存在感と手触り感とつながり感■
みなさま、おはようございます!
沖縄の家とプロデュースしてるシェアハウスで、スマートスピーカーにすっかり慣れてしまって、朝霞の部屋で「アレクサ~」と呼び掛けて「・・・・・」何の返事も無くて、「あ、ここには設置してなかった。」と気づいて少し寂しい想いをしている佐藤です。
#慣れって怖い #スマートスピーカー便利
一昨日、連続カンファ#3を開催しました。今回も大勢の方にご参加いただいてありがとうございます。
予定不調和の会ながら、毎回目から鱗や言語化できなかったことが明確になったりと、ありがたい限りです。詳細はまた改めて報告したいと思いますが、とりいそぎ昨日僕が見えた景色を。
「居場所とは何か?」「居場所の役割とは何か?」を通して、人とのつながりや、豊かさを研究されているゲストスピーカーの澤岡さんから、「居方」というお話やそれにまつわるエピソードを伺って、「集いの場」の手前に「井戸端」をRedesignした方が良いのかな?というお話です。
優しい日常が奪われた
星野富弘さんの作品に、「日日草」という作品があります。
今日もひとつ
悲しいことがあった
今日もまた一つ
うれしいことがあった
笑ったり 泣いたり
望んだり あきらめたり
にくんだり 愛したり
そして これらの一つ一つを
柔らかく包んでくれた
数え切れないほど沢山の
平凡なことがあった
僕はこの作品がとても大好きなのですが、昨日の澤岡さんとご参加いただいた方との対話の中で浮かんだのは、「数えきれないほどたくさんの平凡なことがあった」がこのコロナで奪われたのではないか?そのことがとてもきついんじゃないか、という思いでした。
買い物に行ったときに偶然あった人やレジを打っている人とのささやかな会話や、なじみの喫茶店でお店の人と交わす会話、「お。あの人今日も来てるのか、今日は何読んでんのかな?」と、言葉をお互いに交わしたことは無いけど、勝手に感じている存在感と、同じ場所を気に入っているというささやかな共感とつながり感。
「集う場」が無くなったことは、それはそれで確かにきついんだけど、みんながみんな集う場所に来ていたわけではないし、もっと日常を優しく包んでいた「ささやかなパブリック」が日常から奪われたことが大打撃なんじゃないかと。
「パブリック」をRedesignしよう!
「パブリック」と聞くと、多くの人は「役所」とイメージが繋がると思います。「公」ですね。でもこれって特殊で、例えば「パブリックスクール」ってありますが、あれは「私立」の学校なんですよね。どちらかというと日本で言う「共」が「パブリック」の意味に近いんだと思います。
僕は中国に2年くらい住んでいましたが、住居の地域や日常に「公」はあります。が、「役所」とは違うんですよね。
共通するのは、「私(プライベート)」を持ち寄ってもいい場所、のような感じから、みんなで使う、みんなで力を合わせる、みたいなのが「パブリック」のイメージに近いかなと感じます。
振り返って、自分の環境を見回してみると「私(プライベート)」を持ち寄ってもいい場所」がやっぱり少ない印象です。
澤岡さんの言葉をお借りすると、「居方」を持ち出せる場所が極端に少ない。
「居方」を持ち出せないから、誰がどんな人か分からない。「コミュニティ」において「誰がどんな人かわからない」というのは致命的です。
日本(特に都市)の場合、「私(プライベート)」を出ると「まったく自分とは関係ない人の集まり」という空間や意識になっていて、その間に断絶というか断層というか不連続になっています。「薄まった私(プライベート)」というか、ささやかなプライベートと言うか、さりげなくの自分をまとって居られる(澤岡さんの「居方」という言葉を僕はこのように捉えました。)場をつくろうと思いました。
「袖触り合うも他(多)生の縁」
そういうことが自然発生する場所、装置がたくさんある豊かさ。
スーパーのレジ、散歩コース、お気に入りの喫茶店、ちょっと花壇のきれいな公園、ちょろっと腰を下ろせる場所、ちょっと話し込める場所、・・・。
心地よい距離感を自分の感覚で取ることができて、「居方」を出せる場所。
そして他者の存在感を感じ、とどういう人かという手触り感を感じ、たとえ勝手でもつながり感を感じて、翻って自分の存在感を感じる。
この目に見えないささやかな「コール&レスポンス」、「響きあい」が日常になる地域はきっと、豊かで、魅力的なんだと思います。
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