人の「器」とは。
「器の大きい人になりなさい」
「心の広い人になりなさい」
「あなたのできる事は限られている」
よく人は、ある1人の個人に対して、その人の技量なり性格なりを図るために「器」の大小を比較する。
では、自分の「器」とはどれほどか?
全て許す事ができたら、器は広いのか?
全て知っていたら、器は深いのか?
全て辻褄が合えば、器は整った形をしているのか?
「器」とは、「置くもの」なのだろうか。
「器」とは、「あるもの」ではないか。
全てを許す事ができずとも、
それを上回る全てが存在すれば、
そもそも「全て」を把握できはしないだろうし。
全てを知っていたとしても、
いつでも変わり得る全ては、
いつまでも「全て」には足りないだろう。
全ての辻褄があったとしても、
辻褄とはただの結果論であり、
本当に起こったのかすら危うい。
要は、人に「器」ってないよねって話。
ただ勝手に、
(評価項目に則った)容量はいくらで、
(人が見えるくらいの)形はどうで、
その形は適切ではないから
こうすべきだ何だって言われて、
「なんかアルっぽい」って思わされただけ。
何もないのが不安なら、
何もない事で安心できるまで広げればいいだけ。
おわり。